音読ばかりを重視しないせず、その先も見据える重要性 | 大学受験 英語勉強法 〜灘高&京大卒 塾講師からの指南〜

大学受験 英語勉強法 〜灘高&京大卒 塾講師からの指南〜

中学受験に失敗…その後懸命に努力し高校受験で灘高に合格! 一時燃え尽き症候群で苦しむも再起し京大合格! 今ではその経験を活かし、塾・予備校講師として主に高校生・浪人生に英語を教える日々。そんな講師が具体的な大学受験の英語勉強法を提示する。

僕が塾・予備校講師として英語を教えているということもあると思いますが、最近やたらと英語教育について話題になることが多いように思います。


そこで今回は『音読ばかりを重視しないせず、その先も見据える重要性』について書いていこうと思います。

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●和訳指導を絶対悪にしない●
確かに英語学習において音読というのは非常に価値のあることだと思います。


英語に慣れ親しむという意味でも、実際に身体経験として英語を残していくためにも重要だと思います。


しかし、その一方で、音読だけでは足りない点というのも考えなければならないのではないかと思います。


どうも、このように音読によって英語に大量に触れることが善で、和訳のような緻密に考えることは悪だというように感じるときがあります。


以前『和訳指導をしないのとできないのとは違う』という内容を書いたことがあります。


悲しいかな、ほとんどの英語講師は『和訳指導ができない』タイプだと思います。


それにも関わらず、『和訳では生徒は伸びない』と謎の結論を出すのには大反対です。


これはこれで英語講師の技量の問題としてしっかり反省すべき点だと思います。


まずは『人のせいにせず、自分を見つめ直す』ということが必要だと思います。

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●僕の出身高の最近有名な先生と現実●
さて、それは今回は置いておくことにしても、やはり音読こそが絶対の善だという発想には少々疑問です。


僕の出身高の先生の中に最近出版物などを多数出し有名となった先生がいます。


この人が関与した本はたいていよく売れていると思います。


そして、その先生に習っている生徒も知っていますし、習っていた生徒も知っています。


最近はこの先生も有名になったためか、セミナーなどもしているようです(これに関しては僕自身が詳しく知りませんが…)。


この先生のスタンスははっきりしていて、『基礎的な英語に大量に触れることによって英語力を上げていこう』というものです。


確かに英語に慣れ親しんでいる分、読むのが早い子も中にはいますし、リスニング能力が高い子もいます。


しかし、その一方で、正確な文法がわかっているかと言えば全くそんなことはないですし、正確な読解力があるかと言えばそんなこともありません。


さらに持っている語彙量が特段多いわけでもありません。


悲しいかな、これが現実なんですよね。


別にこの子自身がその高校の中で英語ができないわけではありません。


むしろ中学までパッとしなかった英語が、塾に来てトレーニングを積むことによって大きく成長した子でもあります。


確かに音読を主に進め、ちょろっと基礎的な内容を扱うのは講師としては楽ですよね。


でも英語に慣れ親しむことによって行き着けるレベルには限界があるように思います。


あくまでその子たちが求めているもの、最終的に入試といった形で必要なものは『英語という言語を通して論理的かつ柔軟な思考ができるか』です。


決して慣れ親しんで終わりではないわけです。ここを勘違いしてはいけないと思います。


また、その先生があまりに有名になったことにより、『N高校はやはり凄い』となってしまうことがあります。


しかしこれには勘違いが入っていて、担任で持つのは6~7年周期です。


つまり、その先生がメインに入って教えているのは1学年だけであり、大半のこの高校の実績はこの先生によるものではありません


もっと言えば、安定的に生徒が多数通っている、近くにある塾や予備校の実績なわけですよね。


さらに言えば、大半の子は英語で点を稼いでいるのではなく、数学や理科といった理系教科で点を稼いでいます。


これも悲しいかな現実です。


ちょっと皮肉めいて書きましたが、『音読が重要である』というスタンスを完全に否定する気はありません。


しかしその一方で、『音読のみで到達できる地点ばかりではない』という現実もしっかり理解してほしいと思います。


何せ生徒は英語に慣れ親しむことを目標にしているのではなく、入試に合格することを目標としているのですから