青少年の居場所づくり全国フォーラム2日目。今日は会場周辺(横浜の関内・黄金町周辺)のフィールドワークに参加しました。横浜と聞くとみなとみらいのあたりをイメージしてしまいがちですが、今回フィールドワークをした場所は、戦後間もない頃の社会的背景の流れでかつて違法風俗店などが建ち並び、2005年に一斉摘発されたという背景を持っている地域。これによって様相が一変し空洞化した地域を活性化するため、アートによるまちづくりが行われているのが現在の黄金町であるとのこと。また、近隣には在籍児童の6割5分ほどが海外にルーツがあるという小学校があることも大きな特徴だという説明がありました。


○黄金町BASE〜こどもたちが生き生きと表現する場〜
フィールドワークでは、途中「黄金町BASE」へ立ち寄り、ここで小学生たちと関わっているアーティストさんのお話を伺うことができました。
↑こちらが黄金町BASE。運営はNPOが行っており、毎週金曜日と土曜日にオープン。主に放課後こどもたちがやってきて、アーティストの方々や街の工場から出た廃材を使って自由にものづくりを行なっているそうです。外観を見ただけで「ここは、こどもたちが生きている場所だなぁ」という息遣いが伝わってきます。
中には木材を中心とした素材や、こどもたちの制作物がたくさん置かれていました。
剣や銃など、自分たちで遊ぶためのおもちゃも自分たちでつくります。
外壁の黒板には、沢山のこどもたちの落書き、いや〝楽〟描きが。オトナの管理・統制による整然とした空間ではない感じが個人的にとても好きです。
「えをかいてもいいよ」いう、こどもが書いたと思しきメッセージ。こどもたちが実際にいる場面を見ていないので私の解釈になってしまいますが、こどもたちの自治が保障されていることや、自分自身の表現が受け止められているからこそ他のこどもたちに対しても絵を描くことを許す優しさが生まれていることがうかがえます。


○アートは言葉の壁を越える
アーティストの方に地域づくりを行う上でアートに着目した理由や、実践をされる中で感じるアートが持つ役割について質問をさせていただきました。そのお答えの中にあった(海外にルーツがあるこどもたちが多いという地域特性を踏まえた上で)「言葉がわからなくても、作ることを通して接し合える」という言葉がとても印象に残っています。また、「ここへ来て、ひたすら板に釘を打ち付ける子もいる」というお話があり、ものづくりがこどもたちが抱くモヤモヤした気持ちを発散する機会となっているということもお伺いすることができました。


○異質なもの同士を繋ぐアート・美の役割
「言葉がわからなくても、作ることを通して接し合える」というお話に関連して、レッジョ・エミリアで見たこちらの光景が思い浮かびました。
↑この写真に写っているものは確かにアートと言えばアートなのかも知れませんが、よく見ると、有機物と無機物、動的なものと静的なもの、光と影という異質なもの同士が組み合わさっていることがわかります。これは、1人ひとり異なる人々が対話し協働しながら常に地域を創造し続けるという、レッジョ・エミリア市に通底する民主主義のメタファーであるようにも思えます。美が持つ触媒性と併せてこちらの記事(https://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12577052452.html)に書きましたが、多様な国々のルーツを持つ人々が集う地域だからこそ言語という壁を越えたアートやものづくりが触媒となり、黄金町BASEおよび周辺地域の人々が対話や協働をしていくきっかけを生み出しているのだろうと推察しました。


○「いま、ここ」の身体感覚を味わうことができる場の大切さ
釘をひたすら打ち付けるというエピソードからは、私が修論で取り上げさせていただいたプレーワーカーの方による実践事例(講演会の様子が文字起こしされていたもの)が思い起こされました。内容を簡単にまとめると…
プレーパークで泥団子を作っている子がいた。周りの大人たちは「何ができるかな?」「光る泥団子の作り方を教えようか?」と、ついつい完成形をイメージしたり、良かれと思って手を貸そうとしたりするが、その子は応じない。しばらくして出来上がった泥団子を、なんとその子は地面に投げつけて叩き割る。けれど、その子は満足そうな表情を浮かべていたというお話であったと記憶しています。

釘をひたすら打つ子、泥団子をひたすら捏ねる子…きっとどちらも「作品を作ろう」という明確なゴールは持っておらず、ものと対話し、ものと呼応し合う「いま、ここ」での身体感覚を楽しんでいたのだと思います。生き生きとした情動に満ちていたからこそ、その行為はD.Sternが言うところの「生気(vitality)」を帯び、その結果アーティストさんやプレーワーカーさんに「今日はイライラしているのかな?」「学校で嫌なことがあったのかなぁ?」「きっと今は集中して泥を楽しんでいるのだなぁ」という感覚を感じさせたのだろうと思いました(https://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12577458353.html参照)。「生産性・有用性」の世界を越えて、完成形としての「作品」が求められず「いま、ここ」での身体感覚を楽しむことができる場があることは、きっとこどもたちにとって大切なことなのではないかと思います。


○場や地域の中にアーティスト的な感性を持つ存在がいることの意義
言葉を越えた対話や協働を生み出すアートや「作品」のような完成形を求めないような表現の場の大切さについて、ここまでまとめてきました。これらに加え、そこにアーティスト的な感性を持つ存在がいることも併せて大切なことではないかと個人的には感じています(アーティストであるかどうか以上に感性が大切だと思い、敢えて「〜的な感性を持つ存在」と表現しました)。度々比較に出して申し訳ないのですが、レッジョ・エミリアではアトリエリスタが幼児学校に入っています。研修でレッジョ市内のとある幼児学校を訪れた時、アトリエリスタから直接お話を伺う機会がありました。植物や素材が美しく陳列され、落ち着いた雰囲気の音楽が流れるアトリエには、こどもたちが作った焼き物の植木鉢がずらり。曰く「『鉢を作ろう』と促したのではなく、ちょうど植物についてのプロジェクトを行なっており、その中でこどもたちから『鉢をつくりたい』というアイディアが生まれたため制作した」とのことでした。

↑園内は撮影禁止で、限られた時間での見学・お話を伺いながらだったため、殴り書きのイラストになってしまい申し訳ございません💦アトリエとそこに置かれていた植木鉢の雰囲気をお伝えできたらと思いイラストを掲載しました。鉢には「何の役にも立たない草(その割に世話が大変らしい笑)」を意味する「ERBA miseria」(ムラサキツユクサ属?)が植っていました。

「アトリエでの活動はその日に終わらなくても良いし、続きはまたやれば良い。まぁ、ずっと放置されていたら『まだ完成していないんじゃない?』とは伝えるが、最終的に完成しなくても良い。一応作品として仕上げないとかわいそうだから、できたところからの続きは私(アトリエリスタ)が作る。大切なのは〝一緒にやった〟という思い出が残ることなのだ」

私たちへのお話の中で、このような言葉をアトリエリスタの方がおっしゃっていたことが印象に残っています。余談ですが、個の能力発達的な価値観に基づく「自立」観の中では「個人が完成させる」ことが大切にされ、多様な人々が対話し協働しながら地域社会を築いていく社会構成主義的な価値観の中では「一緒に1つのものを完成させる」ことが大切にされるのだなぁと、日本とレッジョ・エミリアを比較して感じました。

もちろんレッジョ・エミリア市内全てのアトリエリスタが同様の感性を持っているかはわかりませんが、このアトリエリスタの方の言葉と黄金町BASEのアーティストさんのお話を重ね合わせることで、「作品」のような完成形を求めず言葉を越えた対話や協働が生まれ続けるような場における、アーティスト的な感性を持つ存在の在り方が見えてくる気がします。すなわち、

「完成形」ではない「いま、ここ」でのこどもたちの表現から伝わる意味を感じ取る感性…黄金町BASE:釘を板に打ち付けるこどもの背後にある意味をアーティストさんが感じ取っているという事例。レッジョ:その子なりの「今はやりたくない」という理由を感じているからこそ為せるアトリエリスタの「完成」を求めない姿勢。これらに、それぞれ反映されている。

目に見える作品以上に、そこから派生して展開する動きを大切にする。「ゴール」ではなく「生まれ続けるプロセス」を楽しむ感性…黄金町BASE:整然としていない未完成のような余地を持つ外観の設定、壁の〝楽〟描き、こどもたちの様々な制作物(剣や銃、スマホ、ニンテンドースイッチを模したものなど)を受容する姿勢。レッジョ:「〝一緒にやった〟という思い出」を大切にするという発言。これらに、それぞれ反映されている。

他にも詳細に検討することで多数の要素が浮かび上がると思いますが、(差し当たりの考察の中で見えてきた範囲になりますが)上記のような感性を持つ存在が場にいることで、こどもたちは生き生きと表現することが保障されるのだと思いました。また、生成・変化していく目には見えないこどもたちの動きや育ち(故に社会的に認識されにくい)を捉え、それを広く人々の心に訴えかけるようなアートへと昇華させるようなアプローチを持っているからこそ、こどもたちと地域社会とを繋ぐ中間的な役割をアーティスト的な感性を持つ存在が担うことに意義があるのだろうと感じました。


○まとめ
今回黄金町BASEを見学させていただいたことで、言語を越えた対話や協働の触媒となり得るアートの力や完成形を求めるのではない表現の場が地域社会の中に(イベント的にではなく日常的に)あることの大切さ、こどもたちと地域社会とを繋ぐ役割を担い得るアーティスト的な感性を持つ存在がいることの意義について考えることができました。前回のブログで「生産性・有用性」について書きました(https://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12577136163.html)が、この観点からすると完成形がない表現は「無駄」であり、「生気(vitality)」や感性などは数値としてのエビデンスでは表せないため再現性云々の物差しでは測ることができず、故に「理論的根拠に欠ける」と切り捨てられてしまうでしょう。しかし、完成形が求められないような場や機会、アーティスト的な感性を持つ存在がいなくなってしまったら、果たして我々は生き生きとした地域社会での暮らしや人生を送ることができるのでしょうか。多様性が認められる豊かな地域づくりへのアプローチを考える上で、今回見学させていただいた黄金町BASEの実践はとても興味深く思いました。実践者である私自身もアーティスト的な感性を持つ存在としての在り方を磨くとともに、完成形を求めない生き生きした表現を大切にされている場や機会に着目し、捉え、ブログ等で発信していけたらと思います。