まとめるのが少し遅くなってしまいましたが、先週の土曜日に東京大学で行われた「市民としての子どもを考える教育の可能性〜スウェーデンにおけるレッジョ・インスパイアの幼児教育に注目して〜」というシンポジウムに参加しました😊
イタリアのレッジョ・エミリア市で行われている幼児教育は決して「こういうことをしたから、レッジョ・エミリア的だ」という「メソッド」ではありません。その中で大切にされている哲学・人間観・発達観を持ち、目の前のこどもたちといかに関わるかを問い続けることが大切なのだと思っています。
今回、プロジェクト的な保育実践の本や学童保育のお話も聴き「どこか、レッジョで大切にされているところと近いなぁ」と感じていたスウェーデンとこうして結びついたことで、さらなる学びの深まりを感じました✨
今回のシンポジウムで考えたことは、ズバリ「相互主体性と学びの深まりは密接に繋がり合うものである」ということ、そして「既存の知識と、新たなものを生み出す想像性・創造性は決して矛盾し合うものではない」ということです。
今回は前者について書いていきたいと思います📝
◯ストックホルム・プロジェクトで大切にされたこと
今回のシンポジウムの中で、「ストックホルム・プロジェクト」と呼ばれる、レッジョ・インスパイア実践の根幹が紹介されました。その中で、次の3つの軸について話されていました。
…ドキュメンテーションについてはhttps://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12379546732.html参照です。
②こどもたちが自らの思考、問い、仮説、夢を伝え合い聴き合う機会となる審美的表現により重点を置いた
…こどもたちは「こうなったら、次はこうなる」と階段を上るように、すなわち未熟な状態からスタートすると、レッジョ・エミリアで大切にされている教育観では捉えていないと思います。むしろ人間は生まれながらにして研究者・探究者であり、いろいろなものや知識を組み合わせ、組み替えて世界を創っていく存在であると考えます。いつかまとめたいですが、レッジョで買ったある文献で
「審美的感覚(aesthetic sense)」は、固定化されたカテゴリや過度の確実性、単一的な文化を越えて、全く異なるもの同士を繋ぐ力がある。故に、「美学(aesthetics)」は、学習のための重要な活性化物質として考えられ得る
【参考文献】『Art and Creativity in Reggio Emilia』Vea Vecchi, Routledge, 2010
ということが書かれていました。「審美的表現」とは、単に「もの作りやアート的な活動をすればいいや」と表面的・短絡的に捉えるのでなく、その奥にある「美」そのものの意味や意義、役割を踏まえた上での言葉だと受け止めました。
③プリスクールの環境を「家庭的なもの」から、より「ワークショップ(作業場)のような」環境に変えた
…これは後の質疑応答で明らかになったのですが、「家庭的なもの」とは日本の保育〜学童保育の文脈で大切にされているケア的なニュアンスではなく、どうやら「幼児学校の環境を、某大型家具店で揃えた全て大人向けのサイズのもので満たしてしまう、大人基準の『家庭的』にしてしまう」ということのようでした。これは衝撃的!
そうではなく、教師があれこれ言うまでもなくこどもたちの内側から問いや探究が生まれやすいような環境設定を心がけたということなのでしょう。
さて、この3点を軸にしたストックホルム・プロジェクトの中でどのような変容が生まれたのでしょうか。
◯ストックホルム・プロジェクトの結果
1️⃣教師たちは、こどもたちがしたことや言ったことに対して、より注意深く応答的に“聴く”ことを始めたとき、こどもたち自身の課題や問いが、以前に記述した時よりもさらに複雑になっていたことに気づいた。
2️⃣教師は、こどもたちをそれまでとは異なる見方で捉えるようになり、よりオープンかつ探究的な方法で教育を行うようになった。
→「こどもの問いと教師の問いは、相互に関連しながら生じる」という言葉にもあったように、教師はこどもの〝声〟(音声言語のみならず、です)に関心を抱きながら聴き(これも、聴覚をはたらかせるだけではないです)、こどもたちはその中で課題や問い、探究を深化させていく…
どちらかが主役、どちらかが脇役という単純な役割論ではなく、未知なる作品を一緒に創り合うという感覚が近いのかも知れません。この場合、どちらも主体的な存在として「いま、ここ」に携わることになります。
◯まとめ
学生時代、こどもと大人との間で、フリープレイ的な即興的な遊びが生まれる瞬間に着目し、遊びが生まれ、展開し、やがて収束することの意味や意義について、乳児ー養育者交流を基礎とした心理的な部分から考えました。
その中でも相互主体性と遊びの深まりの繋がりを考えてきたのですが(詳しく内容を書くと、ものすごい文量と熱量になるので割愛します笑)、今回のシンポジウムでもそれに重なる話が出てきたため、とても共感できました✨
心理実験の中に「Visual Criff(視覚的断崖)」という実験があります。
詳しくはYouTubeなどの動画を観ていただければと思いますが、途中であたかも足場がなくなって見えるような特殊な実験装置に乳児を乗せます。装置の端っこには大好きなおもちゃ。その向こうに母親がいるようにします。
乳児はハイハイをして進みますが、崖のように見える部分に差し掛かると立ち止まります。その時、装置の向こうにいる母親の顔を見ます。
この時に母親が不安そうな顔をしていると乳児はその場で狼狽えますが、母親が笑顔でいると、その表情から「大丈夫!」という情報を得て、崖のように見える部分を物ともせずに進んでいきます(これは愛着とも密接に関連しますが)。
「ストックホルム・プロジェクト」実践を行う中で、教師たちは今まで以上にこどもたちの姿に対して興味や関心、心を寄せようと思い、それを具体的なレベルで実行されたのだと思います。
そして、そんな教師たちの「目の輝き」を通して、こどもたちは「この先生なら、この環境なら大丈夫!」と、新たな研究・探究を行うことができたのでしょう✨
そうなると、もはやこれまでの枠組みではこどもの姿を捉えることができず、これまでの実践ではこどもたちの探究は収まりきらなくなってきます。教師たちが、既成概念や固定観念、学校現場特有の「例年通り」を打破し、「よりオープンかつ探究的な方法で教育を行うようになった」というのはある意味必然であると言えます。
「こども主体」「こどもを真ん中に」という言葉が日本でも広がっていますが、個人的に、本当にこどもが主体でこどもが真ん中である保育・教育現場は、慣例にとらわれず、日々新たな実践をアップデートし続けることができる柔軟でクリエイティブな共創造の場だと思っています。
もちろん様々な環境の違いによる「言い訳」をすることは可能でしょう。しかし、与えられた環境や条件の中で、変える勇気、変わる勇気を持ち、実行・実践したという点で「ストックホルム・プロジェクト」から見習う点はたくさんあります。
…「嫌われる勇気」みたいな言い回しになってしまいましたね😅
こどもと大人とが共に主体性を発揮し、新たな学びを生み出すような実践の大切さや可能性を感じることができました✨