前回の記事(https://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12382521864.html)で、マラグッツィ国際センターで行われていたメタファーをテーマにした展示について書きました📝

今回は、レッジョ研修を終えて帰国した後の、学童保育のこどもたちが生み出したメタファーについて書いていきたいと思います😊


ある日、運動会の振替休日で朝から入室していたこどもたちと川へ行きました。
私は野外活動については点で駄目なので、もう1人の職員がこどもたちと一緒に釣りを楽しんでいました🎣
私は、釣りには興味がないこどもたちと一緒に河原で遊ぶことに。

すると、「この石、線が描けるんだよ‼️」と小学3年生の女の子が見せてくれたことをきっかけに、石を使った探求活動がスタートしていきました✨


【見立て遊び】
線が描ける石・描けない石を区別する活動は、「この石、なんだかサメの顔みたい‼️」という発見を皮切りに、見立て遊びへと展開していきました。だんだんと、1つの石の見立てだけではなく、「石同士を組み合わせて何かに見立てる」という遊びへと進化・深化していきます😊
↑「ねぇ、魚みたいになったよ🐟」
↑「これは亀だね🐢」
↑「カブができた〜‼️」
↑「これ、魚がご飯食べてるところだよ🐟」

石だけでなく、自然素材や、なぜか落ちていたコルク、骨、タイルなどを使って、こどもたちは表現していったのでした😳
まさにメタファーですね🌟


【見立て遊びから物語へ】
ここで終わらないのがこどもたちのすごいところ。
「ねぇ、見て‼️男の子がね、りんごを切ったところだよ‼️」
と、3年生の女の子と
「昔々あるところに、桃太郎がいました。犬、猿、キジ…」
と、4年生の男の子が ほぼ同じタイミングで語り始めたことをきっかけに、見立て遊びは物語創りへと展開していったのでした😳

あまりに素敵だったので、こどもたちが語った言葉を文字起こしして、写真を添えて冊子にしてみました^ ^


◯桃太郎の続きの物語
4年生の男の子の「桃太郎」というテーマにインスパイアされて創られた、1年生の女の子が創った物語。内容は、たくさんあったご飯を鬼たちが奪ってしまい、それを取り戻すべく桃太郎一行が鬼ヶ島へ行き、食べ物を取り返した、というもの😊


◯りんごの物語
↑3年生の女の子は、冒頭で紹介したりんごを使って、物語にしていきました。
こどもが切ったりんごは、転がりながら大きくなってゆく。りんごは、1匹の猫を探しながら、なぜか栃木県やアフリカを旅していく。猫には出会えなかったものの、1匹の犬に出会い、枯れるまで仲良く暮らす。やがて年老いて朽ちたりんごが付けた種を犬が地面に植え、再び出会えるかも知れないという余韻を残したところで物語が終わりました✨


◯おおきなかぶ
「桃太郎」の物語を生み出した4年生の男の子が創った「おおきなかぶ」
小石を、おじいさん、おばあさん、まごなどに見立てていくあたりがとても素敵✨
最後はかぶを使ったパーティーを開くという流れになります^ ^


◯じごく
↑先ほど紹介した子とは別の1年生の女の子。長い木の棒を見つけたことをきっかけに、お墓を作り始めました。そして、それを使って地獄の世界を表現。閻魔大王によって、生前の世界で悪いことをした人たちに対して様々な罰が与えられているところを語っていました。


◯くまくんと はりねずみくんと はなのたね
圧巻だったのは、3年生の女の子。りんごの物語を語った時点でも結構な大作でしたが、この「くまくん」と「はりねずみくん」の物語は11分間くらい続きました😳

内容は…
くまくんと はりねずみくんが植物の種を見つける。くまくんは小さな木になることを望み、はりねずみくんは大きな木になることを願う(この大きさの対比が素敵!)。
やがて花が咲いたのだが、くまのお母さんが誤って踏み潰してしまう。泣く泣く2人で再び育て始めた。
1年が経ち、2人が種を植えたところからは木が出た。望み通り、くまくんのは小さな可愛い木。はりねずみくんは大きな木。
くまくんは地面を掘ると、そこには大きなサツマイモが。はりねずみくんも木の下を掘ったが何も出てこない。そこへ鳥がやって来て、はりねずみくんの木の上に木の実が成っていることを告げ、落としてくれたのだった。

2人は喜んでパーティーを開き、森の動物たちを招いた。収穫した実や種を分け、最後は「友情って大切だね!」と言って微笑み合う。

というのが一連のあらすじです✨
動画を撮る前に、予め木に見立てた草や、サツマイモに見立てた石を地面に植え、場面ごとにカメラを動かして撮影していきました‼️

ドラマのロケのセットのように、予め物語の場面ごとに必要なものをセッティングするというアイディアに驚かされました😳



以上、見立て遊びから物語へと展開した一連の流れになります✨
〝100の言葉〟を持っており、研究者・探求者・表現者であるというのは、なにもレッジョ・エミリアのこどもたちだけに限った話ではありません。

当然のことながら、日本のこどもたちだって、たくさんの〝100の言葉〟を持っており、世界を研究し探求し、そして表現しています。

それに気づけるかどうか。それに気づこうとしているか。

「今日、川に行きました」という活動の表面的な部分だけを見るのでなく、そこで何が生まれ、何が展開しているか、ちょっと視点を変えて捉えてみると、よりこどもたちとの関わりが面白くなってくるのではないかと思います✨