ジメジメと蒸し暑い季節になってきたので、怖い話をひとつ。
元々劇場には、そういったものが出るとよく言われる。
僕自身はほとんど見たことがなかったのだが、今回は違った。
その日僕は、ダイエットの一環として帝劇の長い階段を一段一段昇っていた。
地下六階、地上九階の帝劇ビルを階段で移動する人はほとんどおらず、本番中にも関わらず舞台上の音が全く聞こえてこない階段は、まるで人気のない建物のようにひっそりとしていた。
空調の入らない階段は、夜明けから雨が降ったせいで異様に湿度が高い。
あれー、なんだろうなー。なんだかヤダなー。と思っていると、視界に黒い影がさっとよぎった。
真っ白な階段のタイルに、ポツンと、あるはずのない黒いシミ。
本能では、「これは見てはいけないモノだ」と分かっていたはずだが、そんなはずは無いという理性がそうさせたのか、或いは人間に対する怨念がそうさせたのか、目が勝手に黒いシミを捉えていた。
それはそこにいた。
おそらく毒を盛られ、志し半ばで苦しみながら果てた、赤ん坊の拳大もあろうかという、真っ黒で立派な「G」!!。
しかもツヤツヤした方じゃなく、なんかザワザワした裏っ側!!!!
脳が認識した瞬間、アドレナリンが大量放出され、疲れ切った脚の筋肉に力がみなぎり、一気に楽屋まで階段を駆け上がった。
見たのは一瞬の事だが、微動だにしなかった。確実に生きてはいなかったはずだが、その衝撃の大きさたるや。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」とはこの事か。いや違うか。
脳裏に焼き付いた映像を忘れるのにだいぶ苦労したが、あのサイズのGが、まだ元気でこっちへ向かってきたらと思うと、身の毛がよだつ。
暑いのも、疲れたのも、一気に吹き飛んだ夏の恐怖体験……。
しばらくして、恐る恐る同じ所を通ると、Gはいなくなっていた。
うちの犬のように仰向けで寝ていたのでもなければ、誰かが片付けてくれたのだろう。
その人には申し訳ない事をしたが、それほどGが怖くないという人もいる。そうだったことを願いたい。
ただ、少し気になることがある。普段楽屋でGが出たとなると、男も女もみんなで大騒ぎになる。奴らの凄い所は、その姿を見せなくてもハンパない存在感を持っていることだ。
あの日、誰の口からもGの話を聞いていない。
まさかとは思うが。
僕が走り去ったあと、ゆっくりと起き上がっていずこかへ消えるGの姿は想像したくない。
でももしかしたら……。
おや、あの黒いシミはなんだろう。