医療崩壊スパイラル
「これまで、生活を犠牲にしてでも患者のために頑張ってきたけれど、もう限界です」。こんな手紙を、病院勤務の医師からもらうことが多くなった。
これまで寝食を忘れて真面目に仕事をしてきた医師たちが、医療を巡る現状に悲鳴を上げ始めた。
その原因の1つが、ここ数年、医療事故を起こした医師に対する刑事責任追及の流れが加速していることである。
「罪に問われる基準が明確にされないまま、結果が予想外で重大だというだけで犯罪者にされてはたまらない」、そんな医師たちの思いが伝わってくる。
こうした医師たちの思いを増幅させたのが、福島県立大野病院の産婦人科の医師が逮捕・起訴された事件だ。
04年12月、帝王切開の手術を受けた女性が死亡し、今年になって、執刀した医師が、業務上過失致死と医師法違反の罪で逮捕・起訴された。
この事件に対して、日医をはじめとする、100近くの医療関係団体が、相次いで抗議文や声明文を出した。
「明らかな過失もないのに、医師を逮捕するのは不当。医療関係者の不安が増大している」と訴えている。
医師の過失が刑事責任を問われるほどのものかどうかは、裁判の過程で明らかになるだろうが、この事件が医療関係者に与えた衝撃は、あまりにも大きい。
それにしても、なぜ、刑事責任追及の流れが加速しているのだろう。
医療事故が起きた時、被害者が望むのは、なぜ事故が起きたのかその真相を明らかにして、医療側にミスがあれば謝罪して欲しい。そして二度と同じ事故を繰り返さないよう対策をとって欲しいということである。
ところが、多くの場合、医療側から事故の原因について、十分な説明がない。そうしたなかで、被害者の側ができることといえば、現状では、民事の裁判に訴えるしかない。
ところが民事裁判では、被害者の側に立証の責任があるので、医療の専門家を椙手に争うのが難しく、真相が究明できないことも少広くない。
そこで、被害者の側が期待するのが警察の力である。自分たちの手で解明が難しい事故の真相を、刑事裁判の場で解明して欲しいと願い、そうした期待を受けて、警察が積極的に動き出したということだと思う。
しかし、事故を起こした医師個人の責任を追及する刑事裁判の場でも、被害者の思いは満たされない。
事故は多くの場合、医療体制上の問題が複雑に絡んでいるが、刑事裁判では、問題の全容を解明することが難しく、事故の再発防止につながらないからだ。
しかも、刑事責任追及の流れが、医療の萎縮ともいえる深刻な事態を招いている。
産科だけでなく、事故と背中合わせの外科や小児科、救急などの医療現場から、医師が撤退を始め、難しい医療を敬遠する動きが出てきている。
例えば、埼玉県の救急の現場では、病院が患者の受け入れを断るケースが増えているという。
埼玉県が、たらい回しがひどすぎるという住民の苦情を受け、去年7月と8月、県内の消防本部を対象に緊急に調査を行った。
それによると、4万件あまりの搬送のうち、患者の受け入れを病院に断られ、5回以上要請を繰り返したケースが403件、受け入れ先を決めるのに30分以上かかったケースが242件あった。
なぜ病院は患者を受け入れないのか、その理由を尋ねると、「専門外だったり、難しい患者を診たりして事故を起こせば、刑事責任を問われかねない。だから安易に患者を受け入れられないのだ」という。
こうした医療の萎縮ともいえる現象が広がれば、私たち患者の側が、必要な医療を受けられなくなってしまう。事態は深刻で、社会全体で早急に対策を考えなければならない。
では、今後、どんな対策が必要なのだろう。
欧米諸国では、予期しなかった患者の死に医療行為が関係していた場合、第三者が公正に原因を究明する仕組みができている。
日本もそうした体制づくりを急ぎ、医療側と患者側が対立する裁判に変わる紛争処理の仕組みをつくることが緊急の課題だ。
そのうえで、全体のなかのどのような過失を刑事責任に問うのか、その基準を明らかにする必要もある。
どんなに手を尽くしても結果が予想外だったら、刑事責任を問われるのではないかという医療関係者の不安が広がっているからだ。
そして、何より大切なのは、日常の診療のなかで、医療者と患者が互いに理解を深め、信頼関係をつくっていくことだと思う。
医療は、常に人の死と隣り合わせで、不確実性が高い。手術を始めてみないと本当の病状が分からなかったり、予期できない合併症が起きたりすることがある。
患者の側は、病院に行けば必ず病気を治してくれると期待するのだが、そうした医療の不確実性を理解することが必要だ。
同時に、医療が不確実で専門性の高い分野であるからこそ、医療側自ら、患者の側に説明する責任があるのだと思う。
民事裁判に訴える医療事故被害者の多くが、「事故が起きた時に医療側から納得できる説明があれば、裁判を起こすことも、警察に期待することもなかった」と話している。
医療側がそうした被害者の声に耳を傾け、患者側も医療者への感謝の気持ちを忘れずにいることが、医療の質を高めることにつながっていくのだと思う。
最後に、私たちマスコミの役割にも触れておく。医療崩壊スパイラルともいえる医療現場の状況を、伝え続けなければならないと強く感じている。
これまで、医師が現場の状況について語ることは少なく、国民に深刻な状況が十分伝わっていないと感じるからだ。
医療費が抑制されれば、確かに国民の負担は軽くなる。しかし、その結果として、必要な医療が受けられなくなってしまっては元も子もない。
医療現場の荒廃を食い止めるには、社会全体で危機感を共有して、取り組みに必要な負担も分かち合わなければならない。
安心して医療が受けられる体制を再構築するために、マスコミが果たすべき役割は大きい。そのことを自覚して、報道を続けていきたいと思う。
飯野奈津子「医療崩壊を食い止めるために」
いいの なつこ
NHK解説委員
昭和58年国際基督教大卒。同年に初めての女性記者としてNHKに入局、その後、警視庁、厚生省などを担当し、平成11年より現職。
担当は社会保障(医療・年金・介護など)、女性問題。
主な著書に、「患者本位の医療を求めて」(NHK出版)などがある。
日医ニュース No.1080
2006.9.5
日本医師会