大和魂
 
「やまとだましい」というものは、今はどこにあるのだろうか。魂だから、はっきりと見えるものではないだろうが、どこかに漂っているのだと思う。
漂うというより、染みこんでいるのか。桜の花びらの、いわゆる桜色の中とか、あるいは2月の梅の花の香りの中とか、そういうところにわずかに混じっている可能性がある。
本来は稲穂の中に染みていたと思われるが、最近は政府の減反政策などあって、必ずしも稲穂の中の「やまとだましい」は、確かなものではなくなってっきている。 休耕田では稲の代わりに雑草が生えて、やまとだましいに代わって、「雑草だましい」がただよっている可能性がある。
「雑草だましい」というのは、踏まれても踏まれても負けずに伸びていくということで説明は簡単だが、「やまとだましい」というとそうは簡単に説明できないところが特徴である。
日本の米には主食という名が与えられていて、長い間日本人の基礎であったことはたしかである。禄高五千石とか、一万石とか、米は価値基準というか、通貨のような位置にあった。
体力の面でも、飯さえあればあとは沢庵と味噌汁で大丈夫と思われていた。だから「やまと魂」は米の中に宿っていた疑いが濃厚である。
もう一つ、ショーユ味というのも「やまと魂」の温床であるように思われる。ショーユ味はもちろんソース味と対立併置されるもので、日本と西洋の対比である。日本人にとってはまずそれが、大きな二分法である。
西洋より近くに中国がある。この中国の場合は何味といえばいいのか。日本と中国は同じ東洋であり、しかも歴史上、 中国は先輩格である。だいたいのものは中国大陸から流れてきている。
その 中国はショーユ味といっていいだろうか。仮にいいとしても、中国に「やまと魂」 があるかというと、そんなものありませえんよ。あるわけがないし、あってはならない。
「やまと魂」は、あるとすれば日本列島のものであって、中国大陸にあるはずがない。欲しいといってもあげない。
ラーメンは中華のソバだが、ぜんぜん中華的ではない。ラーメンの発端は中華かもしれないが、明らかにショーユ系である。
中国も醤油を使う。とはいえ、それはたんに調味料の 一部という気がする。しかし、日本の場合は調味料の一部というより、醤油が日本の柱となって、日本列島の中心にたつ富士山みたいに、わしにまかせておきなさい、と言う感じで存在しているのではなかろうか。
醤油というのは 不思議な調味料である。海から釣り上げたばかりの魚に包丁を入れ、ただ醤油をたらりと垂らしただけで、もう大変なご馳走となる。マグロのトロはうまいが、あれを醤油なしで食べられますか。
醤油は完全な透明ではないにしても、透明系である。だからそれ自体の存在感は希薄である。でもそのショーユが魚に、貝に、野菜に、豆腐にかかるとそこに味が芽生える。 意味が芽生える。
どうやら「やまと魂」というものは、それ自体は透明で見えなくても、 春の桜の花びらといっしょになって、やまとだましいが咲いてくる。梅の香りといっしょになってやまとだましいが流れはじめる。
戦時中に、やまとだましいはひたすらに勇ましいものだと喧伝された。それにただ乗せられたらまずい。やまとだましいが勇ましさであることにやぶさかでないが、それは見せかけ上のことというより、むしろ内に隠された、透明な勇ましさなのではないだろうか。
赤瀬川原平「大和魂」 新潮社 より抜粋引用