恋愛と幻想 | 月かげの虹

恋愛と幻想


ついひと昔前に「対幻想」なんて言葉が流行ったこともあるくらいだから、「恋愛」というのはそもそも幻想に違いないが、だとしても幻想が成立しうるためには条件があって、それはたぶん当事者同士が(ヘンな用語だけど)「二者完結」している状態にある、ということだろう。

端的にいえば恋愛中のカップルはそれ以外の世の中に対して「閉じて」いる。もちろん一方が濃厚な「対幻想」を抱いていても、相手がその幻想を一切共有していなければただの「ストー力ー」でしかない。

でも世の中には「自己完結」している人間というのもいて、そういう人は、その時点ですでに世界を相手に閉じてしまっているわけだから、さらに「二者完結」なる状態を欲する必要がない。

「自己完結した人間は絶対に恋愛をしない」とまでは断言できないだろうけど、ふつうの意味での「恋愛」なんて、彼らには必要ないんじゃないか。

本谷有希子の『生きてるだけで、愛。』は、そんな疑問に答えてくれる小説である。

高校時代に全身の体毛をすべてそり落としたことがあり、いまも奇矯な言動が吹き上がるのを抑えられない板垣寧子(いたがき やすこ)25歳はスーパーのレジ打ちの仕事を辞めて以後、うつ状態が続いている。

3年前から同棲している恋人・津奈木景(つなき けい)のマンションで「過眠症」と称して惰眠をむさぼり、そんな自堕落な生活をネットの掲示板に書き込むばかりの毎日。

雑誌編集者の津奈木は仕事で忙しく、自分に振り向ける労力をケチっていると寧子は憤るが、合コン会場で出会って成り行きでつきあい始めたときから津奈木はそういう男だったし、そんな風に男とつきあい始めた自分が「妥協におっぱいがついて歩いているみたいな」ものであることを、寧子自身もよくわかっている。

2人の関係は「恋愛」というより、お互いの領分を侵さないという協定を結んでいる状態に近い。作中にそう描かれているわけではないが、卵2つで作った目玉焼きのように、それぞれの核をしっかり守ったまま白身であやふやに繋がっているような状態をたぶん寧子は想定している。

だが、そんな中間地帯によってなんとか維持されてきた寧子の自己完結システムは、津奈木の元彼女・安堂(あんどう)の登場によって変化を余儀なくされる。

津奈木の部屋を出て独り立ちできるよう、即座に「働く」ことを安堂に強要された寧子は、家族的な雰囲気のイタリア料理店でアルバイトをはじめる。

初日にいきなり「ガッキン」と仇名をつけられたり、ヤンキー上がりのオーナーや年下のホールチーフ(オーナーの嫁)に素朴な人生訓を垂れられたり、欝なんていうのは「寂しいからなるに決まって」いるとオーナーの母に本質をズバリ言い当てられたりしたことで、寧子はうっかりこの世界に染まりそうになるが、ウォシュレットから噴き出る水が怖いという切実な思いを、彼らの誰一人として理解してくれないことにブチ切れ、店のトイレを破壊して逃走する。

思いこみの烈しい激情型の女が暴走するというのは本谷作品の「お約束」だが、この小説が過去の作品よりずっと優れているのは津奈木という男の造型にある。

コンパで出会って即座に「こんなつまらない人間がいるわけない」と寧子は感じるが、やがて自分のどうしようもない「味の濃さ」を中和してくれる津奈木の「味のなさ」に自分が「子供のようにしがみついた」ことを自覚する。

寧子的な「味の濃さ」を演劇表現の、津奈木的な「味のなさ」を小説という散文表現の特徴と考えるとわかりやすい。

寧子は自分と同じような「黄身」だけが他人だと思いこんでいるけれど、じつは「白身」という形で存在する他人もいたのだ。

目玉焼きのように黄身と白身とに分離していた二人が、両者の入り交じったスクランブルエッグ程度にはなりそうな予感で終わるこの物語を、はたして「恋愛小説」と呼んでいいのだろうか。

古典的な恋愛劇が(あるいは「セカイ系」と呼ばれる現代小説も)「恋人たち」対「世界」という対立構図を基本とするのとは反対に、この小説では寧子と津奈木は社会と少しも対立していない。

同時収録の短篇「あの明け方の」も表題作の小さな反復のような話であり、どちらの小説でも作者によって強く肯定されているのは「恋愛」という幻想などではなくて、タイトルの指し示すとおり「生きる」ことと「愛する」ことだ。

富士山と葛飾北斎との関係をふつうは「恋愛」と呼ばないように、それらは「恋愛」なんかよりずっと、ずっと奇跡的なことなのである。

中俣 暁生「黄身と白身がまざるとき」
(なかまたあきお フリー編集者/文筆家)


本谷有希子『生きてるだけで、愛。』
4-10-301771-6

波 2006年8月号
新潮社
¥100