キリのない欲望 | 月かげの虹

キリのない欲望


欲にはいろいろ種類がある。例えば、食欲とか性欲というのは、いったん満たされれば、とりあえず消えてしまう。これは動物だって持っている欲です。ところが、人間の脳が大きくなり、偉くなったものだから、ある種の欲は際限のないものになった。

お金についての欲がその典型です。キリがない。要するに、そういう欲には本能的なというか、遺伝子的な抑制がついていない。すると、この種の欲には、無理にでも何か抑制をつけなくてはいけない。

近代の戦争は、ある意味で欲望が暴走した状態です。それは原因の点で、金銭欲とか権力への欲望が顕在化したものだから、ということだけではない。手段の点において、欲が暴走した状態である。

なぜなら、戦争というのは、自分は一切、相手が死ぬのを見ないで殺すことができるという方法をどんどん作っていく方向で「進化」している。ミサイルは典型的にそういう兵器です。

破壊された状況をわざわざ見に行くミサイル射手はいないでしょう。自分が押したボタンの結果がどれだけの出来事を引き起こしたかということを見ないで済む。死体を見なくてよい。

原爆にいたってはその典型です。「おまえがやったことだよ」とその場所を、爆破後1日たって見せてあげたら、普通はどんなパイロットだって爆弾を落としたがらなくなるでしょう。なにせ何万、何十万という被害者が目の前に転がっているのですから。

その結果に直面することを恐れるから、どんどん兵器は間接化する。別の言い方をすれば、身体からどんどん離れていくものにする。武器の進化というのは、その方向に進んでいる。

ナイフで殺し合いしている間は、まさに抑止力が直接はたらいていた。目の前にいる敵を刺せば、その感触は手に伝わり、血しぶきが己にかかり、敵は目の前で倒れていく。

異常者でもなければ、それに快感を感じることはない。だからこそ、武器は出来るだけ身体から離していきたい。その欲望を実現していき、結果として、武器による被害の規模は大きくなっていくばかりです。

よく似た現象が、経済の世界にも存在しています。お金というと、何か現実的なものの代表という風に思われがちですが、そうではない。カネは脳が生みだしたものの代表であり、また脳の働きそのものに非常によく似ている。

脳の場合、刺激が目から入っても、耳から入っても、腹から入っても、足から入っても、全部、単一の電気信号に変換する性質を持っている。神経細胞が興奮するということは、単位時間にどれぐらいのインパルスを出すか、単位時間にどれだけ興奮するかということです。

これはまさにお金も同じです。目から入っても、耳から入っても、1円は1円、百円は百円と、単一の電気信号に翻訳されて互いに交換されていく、ある形を得たものです。

これは、目で見ようが耳で聞こうが同じ言葉になるのと同じで、どのようにしてカネを稼ごうが同じカネなのです。カネの世界というのは、まさに脳の世界です。

カネのフローとは、脳内で神経細胞の刺激が流れているのと同じことです。それを「経済」と呼称しているに過ぎない。この流れをどれだけ効率よくしようか、ということは、脳がいつも考えていることです。経済の場合にはコストを安くしてやろうという動きになる。

かつては、お金を貯めて大きな家を作りたい、車を買いたいと、カネと実物が結びついていた。もちろん、今でもそういうことはあるにせよ、どんどん現実から遊離していって、今は信号のやりとりだけになっている。

ビル・ゲイツが何百億ドルかを持っているということは、彼が何百億ドルかを使う権利を持っているということに過ぎない。お金に触ってすらいない。武器でいえばミサイルとか原爆と同様の世界になっている。

欲望が抑制されないと、どんどん身体から離れたものになっていく。根底にあるのは、その方向に進むものには、ブレーキがかかっていない、ということです。

養老孟司「バカの壁」
新潮新書
2003年4月10日 発行
2003年7月10日 14刷
¥680

ようろう たけし
1937(昭和12)神奈川県鎌倉市生まれ
1962 東大医学部卒 解剖学
現在 北里大学教授