人間の品格
 
昨年から話題となっている『国家の品格』という本を読んだ。新書判なのに、五日もかかった。
読み進むうちに頭に血が上り、憤激のあまり放りだしてしまうのだ。これではいけないと、また本を取り直す、の繰り返しの果て、ようやく読了した。
その感想をメールで友人にぶつけたら、一人は「流行思潮ですよ。今に忘れられます」と返信してきた。
なるほど、いわれれば、そうだ。冷静に受けとめればいいのだ(なんせ、そっちのほうがクールでかっこいい)……と思って、まてよ、と考え直した。
太平洋戦争時の「八紘一宇」だって、「皇国史観」だって流行思潮ではなかったか。しかし、忘れられるまでには、侵略戦争、原爆、敗戦という大きな厄難を振りまいた。
流行と割り切って傍観していると、その思わぬ奔流に足をすくわれることもある。そんなわけで、やはり反論を書くことにした。
著者・藤原正彦氏の論点は、以下のようなことだと把握する。
民主主義は疑ってかかる必要がある。そもそもその第一の基本である主権在民の「国民が成熟した判断ができる」というのが誤りだ。国民は常に未熟である。
そこで必要とされるのは、幅広い分野の教養を豊富に身につけ、庶民とは比較にならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持ち、いざとなれば国家国民のすために命を棄てる気概を持つ真のエリートである。
また、国民一般に関して必要なものは、情緒と日本古来の形。それを生みだした武士道精神を見直そうではないか。
藤原氏は、自分の意見は、妻からは「半分は誤りと勘違い、残り半分は誇張と大風呂敷」といわれている、とまず最初に書いている(おかげで、私のように真面目に反論する者は、無粋者と呼ばれかねない。実に賢いやり方だ)。
さらには「品格」「情緒」など、口あたりのいい単語を散りばめて、この本の印象を柔らかなオブラートで包んでいるが、中に書かれていることは、選民思想であると思う。
民主主義に対する疑念の例として、満州事変から太平洋戦争の間、日本はファシズム国家ではなく、民主主義国家だった。
軍国主義を支持する国民がいて、それを扇動する指導者がいただけだ、と書かれている。
当時の日本が、民主主義国家の形態を取っていたのは確かだろう。しかし、それは卵の殻みたいなものであり、内部構造は、恐怖と洗脳による国民統御だった。
民主主義の土台である「すべての人は人としての権利を持つ」ということが成立していない。よって、民主主義は実現していなかった(すべての人の人権が保障されていないという点では、現代日本も大差はない)。
次に私は「国民は常に未熟だ」との表現には反対だ。むしろ「人は常に未熟だ」だと思う。
こう考えた場合、いかに「真のエリート」であれ、未熟である。国によって養成される「真のエリート」は、自分の未熟さに気がつかない愚か者に過ぎないかもしれない。
また、武士道精神を、金銭に執着せず、卑怯を卑しむ心、として藤原氏は礼賛するが、武士階級は、民衆を暴力で脅し、その上に居座ることによって、武士道精神を花開かせた。
暴力体制によって身分を保障され、刀を常に携帯していた武士であるゆえに標榜できた心構えである。
「金銭に執着せず、卑怯を卑しむ心」は結構だ。しかし、それを武士道精神と結びつけることに、私はきな臭さを感じる。
国民は未熟である、武士道精神を教えろ、というのは、封建社会的な上下関係復興機運に通じていく。
藤原氏の唱える「日本古来の形」とは、武家体制によって作られた形だ。それは、暴力を基本にした権力礼賛、つまり将軍、天皇礼賛に繋がっていく。
戦時中の国による押しつけとどう違うのだろう。そもそも「国家」をふりかざす主張が、一般庶民の益になることはない。
今、必要なのは、「国家の品格」ではない。「人間の品格」だ。人としての品格は、人としての尊厳に発している。
我々は未熟だから、真のエリートに舵を取ってもらおう、などという意識から、人としての尊厳は生まれない。
我々は未熟だけれども、少しでも未熟でない方向を考えようではないか、というところから、人の尊厳は始まるのではないか。
坂東真砂子「人間の品格」
人は常に未熟だ
2006年7月2日付け
高知新聞朝刊
視点