美味しそう | 月かげの虹

美味しそう


初めて読んだ杉浦日向子さんの作品は、漫画だったと覚えています。

時代小説はよく読んでいたものの、当時の私にとって、江戸時代の市井を描いた漫画は、珍しいものでした。

読み返したおりには、描かれている江戸っ子の髷が、随分と細くて後ろの方についているなぁとか、女の人の髷に、色々な種類があるみたいだとか、テレビで見ている時代劇との違いに、目が行きました。

しかし最初はそういったことより、作中の江戸の、ゆったりとした、そして肌に触れてくるがごとき雰囲気に、大層心地よく浸ったように思います。

それは、地上の乏しい明かりが届かぬ江戸の夜空に、煌々と白く光る月光の明るさを描いたようでありました。

また、舗装しておらず突き固めてあるばかりなので、砂挨が舞い雨でぬかるむ道の、いささか難儀な泥の感覚でもあったと思います。

その感触は、空の星が見えにくくなるほどに、明かりの絶えない夜や、水たまりの跳ね返りすら無い道に慣れてしまった今の暮らしから、どうにも遠くなってしまったものやもしれません。

頭の中で思っているよりも、もっと肌感覚からは遠ざかってしまったもの。杉浦さんの漫画は、そんなものを持っている気がするのです。

そうして杉浦さんのファンとなりました私は、番組の最後の方で、杉浦さんが「おもしろ江戸ばなし」の解説をしておいでだった、NHKの「お江戸でござる」もよく見ておりました。

面白さと、いささか滑稽な感じの漂う、時代物の短いお芝居も面白かったのですが、やはり楽しみにしていたのは、その後杉浦さんがなさった江戸についての解説でした。

何百年か前の時代を語るそのお話は、面白かった上に、錦絵やセットで形を示してあったりして、分かりやすいものでした。

知っているようで知らない、江戸の頃の事実を色々聞くことができる、見逃せないひとときだったと思います。

また杉浦さんは漫画だけでなく、他にエッセイやショートストーリーなども書かれていました。一連のお話を思い浮かべるとき、真っ先に頭に浮かぶ言葉があります。それは「美味しそう」という一言です。

文章は現代を書かれたときでも、どこか酒脱な感が漂う、すっきりとしたものでした。そこによく、何とも心引かれる美味しそうな一品が、ひょっこりと顔を出しているのです。

ことに酒の肴が、目を引きましたね。杉浦さんは大層お酒に強そうだなぁ、などと勝手に思い描きつつ、己も少しは粋に飲んでみたいものだと思ったものでした。

そして作中に甘味が顔を出してくると、今度は酒の代わりに、珈琲か紅茶かハーブティーが欲しくなったりします。楽しく読んでいる文章の中に甘いものが出てくると、不思議と口にしたくなったりしませんか ?

そうなったら本を一時閉じて、あり合わせの甘味を、本の中の一品の代わりに出すことになります。飲み物を添えてから、またぺージをめくると、時間がゆったりと流れていってくれるのでした。

杉浦さんが書かれた短いお話を読むと、その話が始まる前と、終わった後に、流れてゆく長い時があるように思えたものでした。登場人物達が過ごしている、日常の別のひとこまが、浮かんでくるのです。

話の中で垣間見た恋の続き。翌日出会った美味しい食べ物。先週行った面白そうな場所。一月後に見かけた、面白い出来事。そんな話をまた読みたくて、次の本に手を伸ばしていたのかもしれません。

終わって欲しくないと思える話ほど、物凄く早く、ラストに行き着くような思いをしたことがあります。そういうときは、終わる少し手前で、ちょっとだけ本を閉じてしまったりするのですが……

先が気になるので、直ぐに開けてしまって、やっぱり早々に読み終わってしまうのでした。楽しい一日だと、時間の経つ速さに加速がつくのと同じです。

杉浦さんの書かれるものは、そんなお話だったように思うのです。もう一度、そして新しい気持ちを持って時々読み返しては、一緒に時を重ねてゆく。そんな話を書かれる方でした。

畠中 恵「しみじみと、ふんわりと」
杉浦日向子さん一周忌によせて
はたけなか・めぐみ 作家


杉浦日向子 監修『お江戸でござる』『ごくらくちんみ』『4時のオヤツ』(すべて新潮文庫)

波 2006年7月号
新潮社
¥100