理性
たとえば、デカルトが『方法序説』で持ち出してくる「理性」ですが、われわれはあれを読んだとき、近代人ならこうした理性は当然みな持ち合わせているものだと思ってしまいます。
もしこれをもっていなければ近代人として恥ずかしいことだ、ちょっと自信がないけれど、持っているふりをしなければ、哲学どころではない、と思うわけです。
しかし、『方法序説』をよく読んでみると、デカルトの言う「理性」は、われわれが「理性」と呼んでいるものとはまるで違ったものなのです。
われわれ日本人が「理性」と言うのは、われわれ人間のもっている認知能力の比較的高級な部分、しかしいくら高級でも、やはり人間のもっている自然的能力の一部ですから、生成消滅もすれば、人によってその能力に優劣の違いもあります。
だが、デカルトの言う「理性」はそんなものではありません。それは、たしかにわれわれ人間のうちにあるけど、人間のものではなく、神によって与えられたもの、つまり神の理性の出張所ないし派出所のようなものなので、したがってそれを正しく使えば、つまり人間のもつ感性のような自然的能力によって妨げたりせずに、それだけをうまく働かせれば、すべての人が同じように考えることができるし、世界創造の設計図である神的理性の幾分かを分かちもっているようなものだから、世界の存在構造をも知ることができる、つまり普遍的で客観的に妥当する認識ができるということになるわけです。
そうしたデカルトの言う理性は、われわれ日本人が考えている「理性」などとはまるで違った超自然的な能力なのですから、それを原理にして語られていることが、われわれに分かるわけがない。
といって、それはわれわれが劣っているということではなく、思考の大前提がまるで違うのですから、当然のことなのです。
カントの「理性」の概念やヘーゲルの「精神」の概念になると、話がもっと複雑でダイナミックになるので、デカルトのばあいほど簡単にいきませんが、しかし、それでもさまざまな条件を考え合わせれば同じようなことになるのです。
いや、わたしにしても、こんなことに気がついたのは、ずいぶんたってからです。先生にしても先輩たちにしても、当然デカルトの言う程度の理性は持ち合わせているし、プラトンの言うイデアも日ごろ見つけている、カントの「汝なすべし」という「定言命法」も聴いたことがあるという顔をして
いますから、そんなもの見たことも聴いたこともないなんて、とても言い出せる雰囲気じゃなかったですね。
しかし、そんなふうに普遍的で客観的妥当性をもった認識能力である理性なんて自分のうちにありそうもないし、ましてやイデアだの定言命法だの見たことも聴いたこともないので、うしろめたいことおびただしかったんですが。
ところが、二ムチェ以降の現代欧米の哲学者のものを読んでいると、彼らにしても、こんなものを頼りにものを考えるのはおかしいと思っているらしいことに気がつく。
というより、彼らはそうした超自然的原理の設定を積極的に批判し解体しようとしているわけなんで、そう思ったら、これまでの日本の哲学研究者たちの集団自己欺瞞がおかしくて仕方なくなりました。
分からないものは分からないと、素直に認めれば、なんの問題もなかったはずなのに。しかし、わたしにしても、それを口に出して言えるようになったのは、50歳を過ぎてからでしたね。(つづく)
木田 元「反哲学入門」
第2回
哲学についての誤解
波 2006年7月号
新潮社
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