宇宙という名の物語 | 月かげの虹

宇宙という名の物語


サイモン・シンの著作は、『フェルマーの最終定理』、『暗号解読』と出版される度に楽しみに読んできた。

今回の『ビッグバン宇宙論』もまた見事だった。

ともすれば難解になりがちな数学や科学の概念を解きほぐし、いたずらにレベルを落とすことなく一般向けに解説する。

そのような技量において、今、サイモン・シンが世界でもトップレベルの書き手であることは間違いない。

すぐれた一般向けの科学書の満たすべき条件とは何か ?

何よりも大切なのは、今となっては「常識」と化している世界についての知識が、発見当時はいかに奇想天外なもので、大きな概念的ジャンプであったか、そのめくるめく驚きと感動を伝えることではないかと思う。

アインシュタインが相対性理論を発見する以前の世界に立ち戻って、そこから、アインシュタイン以降の世界へひとっ飛びすることを空想する。

暗黒のトンネルの向こうに、まばゆい智恵の光が見えてくるその瞬間の興奮を思う。そんな驚きを追体験することが、すぐれた科学書の醍醐味となる。

暗闇から光への「知の錬金術」としての科学の実相を描くためには、必然的に、歴史的な経緯を手際よく、しかも印象深くまとめる手腕が必要になる。

そこには科学的発見をめぐる人間のドラマがあり、思わぬ偶然の幸運(セレンディピティ)との出会いが潜んでいる。

サイモン・シンの著作には、そのような科学の躍動感が生き生きととらえられているのである。

科学少年だった私にとって、「ビッグバン」はいつの間にか一つの「常識」としてすり込まれてきた「事実」だった。

ビッグバンの「決定的証拠」となった宇宙背景輻射は私がもの心つく頃には発見されていた。私はまさに「ビッグバン」以降の世代だということになる。

宇宙は今から約137億年前の「大爆発」によって誕生し、今でも膨張を続けている。

この、今では多くの人が恐らく一度はその概略に接したことのある宇宙観は、本書に描かれたように、長い歴史の中で数多くの人々の苦闘の中で次第に獲得されてきた一つの「物語」なのである。

宇宙の成り立ちとその起源は、人間の関心を惹き付けてやまなかった。聖書の創世記の時代から、宇宙をめぐる「物語」を、人類は次第に精緻に磨き上げてきた。

ガリレオが望遠鏡をのぞいて木星の衛星を発見する。ぼんやりとした点としか見えなかった星雲は、実は別の独立した銀河であり、無数の恒星がそこにあることが判明する。

そしてついにはハッブルが光の「ドップラー効果」の測定を通して宇宙が膨張し続けているという事実を発見する。「ビッグバン」という宇宙の物語の骨格が出来ていくのである。

現代の私たちは、「巨人たちの肩に乗る」ことによって、私たちの住まう宇宙の想像を絶するほど劇的な物語をかなりの程度知っている。

物語を受け継ぎ、紡いできたのは、宇宙に比べればちっぽけでいかにも頼りない、しかしだからこそ愛おしい探求者たち。

サイモン・シンの筆致からは、「ビッグバン」という宇宙論を形成する上で功績のあった先人たちに対するあふれるような感謝の念が読み取れる。

科学の真理は、最初から揺るぎないものとして確立しているわけではない。何が正しいのかわからぬまま、暗中模索する時期が続くこともある。

本書の白眉の一つは、ルメートル、ガモフを始め多くの人々が支持した「ビッグバン」モデルと、ホイルらが提唱した「定常宇宙」モデルのぶつかり合いだろう。

一流の科学者たちがお互いにメンツをかけて論争し、激烈な競争に身をさらす。

科学の真理は天下り式に与えられるものでも、孤立した天才のインスピレーションによって得られるものでもなく、人々の手から手へと受け渡され、もまれながらつき上げられていく「お餅」のような存在なのである。

『ビッグバン宇宙論』という見事な「宇宙という物語の歴史」を著した人物はどのようにできあがったのか ?

サイモン・シンは、ケンブリッジ大学で博士号を取った後、BBCで番組の制作にかかわり、それがきっかけで『フェルマーの最終定理』を書いたという。

専門領域の壁を超え、自分という物語を紡いできたわけで、なるほど、宇宙の探究史という広がりのある素材をこれほどうまく扱える能力は、一つの専門性にこだわっていたのでは生まれないのだとつくづく思う。

日本でも、本書のような著作が自然に生まれ、読者に広く受け入れられる土壌ができないものか。

私自身かつてケンブリッジ大学に留学し、サイモン・シンを育んだイギリスのポピュラーサイエンスのレベルの高さを良く知る立場にある。

本書に対する感嘆の念は、そのまま日本の現状を前にもらすため息に通じる。

宇宙を知ることは、その真理を追い求めてきた人間を知ること。『ビッグバン宇宙論』の中には、日本人がその「人間観」を深めるためのヒントが沢山隠されているのである。

茂木 健一郎「宇宙という名の物語」
もぎ・けんいちろう 脳科学者

特集 サイモン・シン『ビッグバン宇宙論』
波 2006年7月号
¥100