男乗りvs.女乗り | 月かげの虹

男乗りvs.女乗り


鉄道が好き、と公言する人が男女ともにじわじわと増加傾向にあるような気がする、昨今。彼等・彼女達を見ていると、鉄道の乗り方には「男乗り」と「女乗り」、2つの方法があるように思われるのでした。

男乗りをする人達というのは主に男性であるわけですが、その路線のことをとにかくよく知り、咀嚼し、制覇するという感じの乗り方を彼等はしている。

その知識量たるやすさまじく、
「○○線はもっと××駅での停車時間を減らすべきだよねえ」とか、
「××線は○○線との乗り入れを早急に考えなくちゃならないと思う」
といった、鉄道に対する支配感覚を有している。

対して女乗りというのは、頭で乗るのではなく情緒で乗る、という乗り方です。ま、私がその手の乗り方をしているだけなのですが、ひたすら窓の景色を眺めて「鳴呼」などと思い続けることが快感。

直流と交流の違いも、下手をすれば電化と未電化の違いすらもわかっていない。

男乗りする人が鉄道を支配したいタイプであるならば、女乗りをする人は、鉄道からの被支配感を楽しんでいると言ってもいいかもしれません。

私も、ほとんど胎内回帰気分で乗っているため、鉄道に揺られていると、自分の寝床においてよりも熟睡してしまうことがしばしばなのです。

『汽車旅放浪記』を読んで関川夏央さんの乗り方を見ると、それは男乗りと女乗りのハーフであるかのような感じがしたのでした。

しかしハーフと言っても、どちらでもない感じというのではなく、最も男乗り的な感覚と、最も女乗り的な感覚とを両方持ちつつ、関川さんは鉄道に乗っている。

関川さんは、鉄道の歴史はもちろん、時刻表についても軌道の幅についても通暁していらっしゃるのです。が、その文章は知識の羅列にならず、知識が背景にあるからこそ、鉄道が持つ独特の情緒が、浮き彫りになる。

たとえば、日本の国土が狭隘でその割に平地が少ないからこそ、日本の鉄道は標準軌でなく狭軌であるという知識を、私はこの本を読んで知るわけです。

すると、できるだけ線路に勾配をつけないようにするために作られた切り通しの風景に対する関川さんの愛と、そんな切り通しをローカル線が通過する時に関川さんが思う「日本の鉄道のけなげさ」とを、共有できたような気分になるではありませんか。

この本の中では、故・宮脇俊三さんについての記述も多く見られますが、宮脇さんもまた、男乗りであり女乗り、という乗り方をされる方だったように思えます。

だからこそ関川さんは、宮脇さんの思いを理解しつつ、その旅の軌跡をたどることができるのでしよう。

どのように鉄道に乗るかということは、その人がどのような人か、ということを表すのでした。

関川さんは宮脇さんだけでなく、松本清張、林芙美子、太宰治、夏目漱石、そして内田百間らの鉄道の乗り方を通して、文豪達の生きざまを眺めています。

比愉的な意味においてのみならず、レールをたどることによって見えてくる人生があるのであり、鉄道は単に距離的に移動することができるだけでなく、時間的な移動や、時には人の心の中への移動もできる乗り物であるということが、この本を読んでいると理解できる。もちろん関川さんの本当の目的地は、自らの過去であるわけですが。

多くの男性鉄道ファンは、鉄道を支配することに夢中になるあまり、乗っている自分がどう見えるか、もしくは他にどのような人が乗っているかということには無関心なものです。

その無関心さこそ、端から鉄道ファンを見た時の、ちょっとした奇妙な印象の元凶なのでしょう。

しかし関川さんは、極めて男性的な関心を持って鉄道に "乗る人" であると同時に "見る人" であり、であるが故に "見られる人"であるという意識も持っていらっしゃるのでした。

全編において、鉄道に乗ることに対する含毒が漂うのはそのせいであり、その含羞は、鉄道好きにとって、とても大切なものなのではないかと思うのです。

関川さんは、盲腸線の終着駅にある、錆びた車両止めの風景がお好きなのだそうです。

確かに私もその風景は好きなのですが、車両止めのその先も、もっと読んでいたい。そんな気持ちになる、1冊なのでした。

酒井順子「男乗り VS. 女乗り」
さかい・じゅんこ エッセイスト
波 2006年7月号

関川夏央『汽車旅放浪記』
4-10-387603-4
新潮社