目に見えない存在
〈シャドウマンサー〉とは死者と会話する能力を持ち、世界を支配すべく神に背を向けた牧師、デマラルのことをさす。
彼は世界に2つしか存在しない魔法の品〈ケルヴィム〉のうち、すでにひとつを手にし、もうひとつを探し求めていた。
たった13歳の少年トマスと、幼なじみの少女ケイト、そしてデマラルの手に渡った〈ケルヴィム〉を取り返すべく、海を渡ってやってきた黒い肌の青年ラファーの3人は、デマラルに戦いを挑む。
トマスはラファーに命を助けてもらったことがきっかけとなり、この戦いに巻き込まれていく。ケイトもまた、本人の意思とは関係なく世界を救う戦いに参加することとなる。
2人ははじめ、神の存在を信じていなかった。日々生きていくのに精一杯で、決して現状に満足してはいなかったが、世界を守るなんてことを考えたこともなかっただろう。
2人は自分たちの運命が変わっていくのに気づいてはいる。しかし、自分たちの力ではそれをどうすることもできない。大切な人とも別れ、次第に芽生え始めた神への信仰を支えに、新たな運命を歩み始める。
この物語では終始、「目に見えないものの存在を、苦しい状況の中でどこまで信じられるのか ?」という問いが投げかけ続けられているように思う。
人間はひどく非力で、意志が弱く、そのくせ猜疑心が強いせいで、目に見えない絶対的な存在を絶えず信じ続けることは難しい。しかし信じることを放棄してしまえば、そこに待つのは暗闇だけなのだ。
物語に登場する敵はデマラル1人ではない。波状攻撃のように新たな敵が次々と出現し、一度は味方のように見え、気を許した者ですら、本当に味方か分からない。そんな状況の中で3人は、神を信じ、次第に成長しながら圧倒的な闇に戦いを挑み続ける。
もうあきらめてしまおう、と誰かが言っても、それをすることはできない。あきらめたあとには闇に覆われた世界での、死よりもつらい生が、もしくは生よりもつらい生と死の狭間の世界が待っている。
しかし彼らは常に3人なわけではない。様々な人に助けられ、神の加護を受けながら戦う。信仰を胸に、幾度も死にそうな目に遭いながら。
信仰とは、これほどのものだろうか、と私は思った。日本は多神教の国で、特定の宗教と信仰を持つ者は少ない。
私も高校までずっとキリスト教の学校に通っていたが、だからと言って信者なわけではない。神の言葉が聞こえたこともないし、本当に苦しいとき神に祈ったこともない。
しかし、神の存在を否定する気はない。教会でミサをしているときは心が洗われて神を信じてみてもいいかもしれないという気になるし、聖歌を合唱しているとき、この歌声はもしかしたら天に届いているのかもしれないとさえ思ったことがある。
私が神に祈るのは、何か嬉しいことがあったときだ。一生の付き合いになりそうな人に巡り合えたことを改めて感謝するときや、奇跡としか思えないような出来事が起こったとき、私は思わず「神様ありがとう」と呟く。
しかしそれが本物の信仰でないことを知っている。本物の信仰とはおそらく、死にそうなくらいつらいことがあったときも、神と心を共にし、寄り添い、神を信じてすべての苦難を受け入れることなのだろう。
信仰は、身体の中に通った一本の槍のようなものなのではないかと思う。それがある限り、どんなに苦しくても身体を折ってひざをつき、打ちひしがれることはない。なにがあっても立っていられる、そんな心のよりどころなのではないだろうか。
そんなことを、この物語を読んで考えた。神を信じ、世界を救うために闇と戦うことを決意した、まだ幼い少年と少女の気持ちを思いながら。
もちろんこの物語は、神に対する信仰のない人が、ただのファンタジーとして楽しんでもまったく問題はない。
しかし、ふと立ち止まって、神や、目に見えない存在を信じることの意義を考えながら読んでみても面白いのではないか。
読み終わったとき、心の中に満ち満ちてくるであろうやわらかな光を感じながら、その存在に思いをはせてみることを、ぜひおすすめしたい。
片川優子「目に見えない存在を、どこまで信じられるか ?」
(かたかわ・ゆうこ 大学生・作家)
G・P・テイラー著/亀井よし子訳『シャドウマンサー』
4-10-505171-7
新潮社
波 2006年7月号
¥100