わたしの死 | 月かげの虹

わたしの死


死をどう考えるかという問題

わたしは、何か災害があっても自分は必ず生きて戻ってくるという妙な確信を持っている人種です。

飛行機の墜落事故くらいなら必ず生きて帰ってくると考えていました。ホテルの火事なんかで、お客さんが敷布をつないで下りてくるのをテレビで見たりしていると、自分ひとりなら大丈夫だけれども、家内を背負って下りるのは無理かな、なんて考えてしまいます。

今はさすがに自信を失いましたけど、まあ、自分だけは絶対に死なないと思っている、太平楽の典型かもしれません。

しかし、自分の死をどう考えるかは、哲学上の大問題です。とくに、自分の死に直面しながら生きるなんてことができるかどうか、昔から盛んに議論されてきました。

ハイデガーは、「死に臨む存在」(Sein zum Tode)なんて言い方をしています。人間にとって究極の可能性である死。それをどう意識するかがその人の生の意味を決定すると考えているのです。

自分の死を意識できることこそが他の生物との違いだとも考えているようです。

ところが、サルトルはそうしたハイデガーの考え方に、真っ向から反対しています。サルトルにとっては、死は「わたしの可能性」などではありません。

死はわたしのすべての可能性を無にし、わたしの人生からすべての意味を除き去る、まったく不条理な偶発事なのです。

わたしの誕生が選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様に、わたしの死も理解したり、それに対処したりすることのできない不条理な事実だと言うんですね。

誰でも死ぬまでは生きています。しかし、死んでしまえば考えることは不可能です。人間にとってあらゆる可能性の切断である死を前にして、ハイデガーの言うようにそれを意識しつつ生きるなんてことができるものかどうか。

メルロ=ポンティも、死の問題ではサルトルと似たような考え方をしています。どちらも、自分の死は人間が理解することのできる出来事ではない、という設定は共通しています。

マルセル・デュシャンに、「死ぬのは、いつも他人ばかり」という言葉がありますが、サルトルやメルロ=ポンテイにも、まあ、そうした前提があったのでしょう。

私も、自分の死の問題に関するかぎり、サルトルと似たような考え方をしています。

日本でも、禅の高僧が悟りを開いて、「生死一如(しようじいちによ)」の境地で生きるなどとよく言います。しかし、どこまで信用していいのかは疑わしいですね。

仏教の悟りの境地は、生と死を一緒にとらえて生きることでしょうが、そうしたことが人間にとって可能なことなのかどうか。それに哲学的な知は宗教的な悟りとはやはり違うように思います。

もっとも、日野啓三さんの晩年の作品を読んでいると、生と死の瀬戸際を生きるという状態がありうる、と思わされますね。

日野さんのばあいは、悟りの境地のようなものではなくて、普通の人とはちょっと別の感受性を持っているということではないでしょうか。

死に直面したぎりぎりの状態で、醒めた意識で生死の問題を考えることができる感受性。もちろん、文学者がみな日野さんのような感受性を持っているとは思っていませんが。

わたしは、常識的な人間です。悟りの境地などとはほど遠い。生死の境に直面したら、何か書こうなんて気は起こりそうにありません。

木田 元「反哲学入門」
哲学は西欧人だけの思考法である
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