潜在能力開発
10歳にもならないころだったと思う。今もはっきりと覚えていることがある。
休みの日の朝など、遅く起きて、布団にすわったまま、腰をまるめてかけぶとんに顔をうずめるようにして伏せると、いつまでも呼吸しないでいられる。
実際には細く息を吐いているのだが、とても長い時間がたっても平気で、まるでこのまま呼吸をせずに周囲と一体になってしまうことができるのではないか、とおぼしき平穏な時間。
それはなんだか楽しいことであり、起き抜けに時間の余裕があるときはいつもやっていた。
のち、保健医療の一翼を担うような仕事を始めてから、人問の呼吸数は1分間にどのくらい、という権威的な知識も身につけたが、それだけが人間の呼吸のすべてを物語っているはずがないことは、幼いころの経験から、言わずもがな、であった。
呼吸を通じて、知らない世界が広がっていることは幼いわたしにも漠然と感じられたのだった。
潜在能力開発、ということばをよく耳にする。いまや、発展途上国の開発問題、というときも「経済開発」ではなくて、「潜在能力開発」を基礎とする「人間開発」について語られるほどに潜在能力開発はふつうのことばとなってきている。
しかし、わたしたちの「潜在能力」とは一体なんであろうか。たとえば、からだの潜在能力とは……。からだはどれほどのことができるのか、自分たちでわかっているのだろうか。
今、普通に目にし、測定できる身体能力、というものだけをものさしにしていないだろうか。からだのもつ可能性について、医学やスポーツの現在の知識の及ばない力というものについて、わたしたちは尊敬をもって接する、という態度を忘れて久しい。
まして、近代以前にはわたしたちは、もっと多様な身体所作を操っていた、ということは想像もできなくなっている。
渡辺京二氏が『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)でえがきだした古い日本の文明、さまざまな生活の総体は、日本の近代化の代償として、明治維新以降、急速に滅びる。
片鱗としてなんとか戦後まで生き残っていた生活様式も、戦争を起こしてしまったことへの悔恨と、民主化という名のもとにいっそう加速された近代化のうちに、一掃される。
簡素な住まいは、ものをつめこんだLDKとなり、正座の暮らしは椅子となり、きものは人目をひく衣装となった。
近代化以前の生活様式のうちには、もちろん、生活所作にうらうちされた、さまざまな身体技法があったはずである。
しかしそれらは、著者、中村明一が書くように「あまりにも自然で、実は日本人の誰もが、別に不思議にも感じないでやっていた」ことであり、わざわざ意識して伝承されていたものではなかった。
だからこそ、生活様式の変化とともに次の世代につたえなければならないという発想すらなく、あっさりと、一世代で忘れられたのである。
男たちは神輿を微動だにせず運び、女たちは月経血をコントロールし、子どもは一人で産み、乳房は惜しみなく与えられていた。
赤ちゃんはこどもたちに背おわれ、おむつも必要でないほどに、いく度もシーシーとささげられていた。
このようなことは特筆すべきことのない日常であり、言葉にする必要も、書き残す必要も、さらさらないことであったろう。
そのような、誰にとっても当たり前であった身体所作の1つに「密息」があったことが、この本ではみずみずしく語られる。
失われてしまって省みられることもなかった身体所作は、何らかのきっかけで、予想もされなかった誰かにより、どこかで、見出され、実践され、ふたたび次の世代につながれていく。
その再発見の道筋を案内されることは、心おどる経験である。この本では「密息」を通じて次世代に向けて紡がれるべき新しい伝統が提示される。
尺八奏者である著者は呼吸のみでなく音についての考察、周波数分析なども行っておられる。
また、音の研究をこえてさまざまな日本文化のありように思いをいたしておられることも、興味深い。
失ったものをとりもどすことはいかにも困難である。しかし、一人の研鑽と気づきがとりもどすことができるものもまた、このように多い、という事実は晴れやかな思いをわたしたちに残す。希望の本である。
呼吸法のトレーニングについては、筆者が何度も引用する齋藤孝氏の長年の師であられた高岡英夫氏が、大変わかりやすく、本質を突いた、だれにでもとりくみやすい本をあらわしておられる(『全身の細胞が甦る! ゆる呼吸法革命』主婦と生活社、2006年6月刊行予定)。
この本で「密息」の呼吸の妙に気づいた方の誰でもが始められるステップのひとつとして、紹介しておきたい。
三砂ちづる「とりもどす、という喜び」
みさご・ちづる 疫学者
中村明一『「密息」で身体が変わる』
(新潮選書) 4-10-603563-4
波 2006年6月号
新潮社
¥100