カフェ文化
映画「第三の男」で、アメリカからウィーンにやって来た作家ホリー・マーティンスが、旧友で、闇の世界の大物になっているハリー・ライムと待ち合せるのは、「カフェ・モーツァルト」である。
ウィーンに「カフェ文化」が100年以上の長きにわたって根付いていることはよく知られている。つい先日、久々に行ったウィーンの街で、意外なものが目に入った。
東京なら至る所で目にする、あの緑色のマーク。同行した編集者が、「あ、〈スタバ〉がある!」と、声を上げた。そう。かの「スターバックス」のコーヒー店が目に入ったのである。
スターバックス? カフェの町、ウィーンで? 私は、20何年か前、初めてウィーンを訪れたときのことを思い出していた。
由緒ある建物が並ぶ中に見えた「マクドナルド」の「M」のマーク。ウィーン在住のガイドさんは苦々しげに、「あんなもの、作ってね……。大体、ドイツやオーストリアには、すぐ食べられておいしいソーセージがあるんですから。誰もハンバーガーなんて食べませんよ」
近々消えて失くなる、と言いたげだった。
そして今、ウィーン市内だけで、一体何軒の「マクドナルド」があるだろう? 今回、スイスからオーストリアヘ、列車やバスで旅をしていて、少し大きめの町にはほとんど必ずといっていいほど、「マクドナルド」の店があった。
むろん、人々はソーセージも食べるだろう。しかし、一方で海の向うからやって来たハンバーガーも拒まなかったのである。それを思えば、「スターバックス」がウィーンに進出してもふしぎではない。
ただ、こちらは少々事情が違う。
ウィーンのカフェは単に「コーヒーを飲む」だけの場所ではなく、社交場であり、サロンであり、個人のプライベート空間でもあったりする。
客はコーヒー1杯で何時間も新聞や雑誌を読み耽り、店も決して文句など言わない。それがウィーンのカフェの伝統である。果してウィーンの「スタバ」がカフェの伝統にならった経営方針なのかどうか。
少なくとも、文人や芸術家たちのたまり場だった由緒あるカフェの数々が、閉店に追いやられるようなことにだけはなって欲しくないものだ。
今年のスイスアルプスは例年になく雪が多かったそうで、その雪どけ水でドナウ河が下流の東欧諸国で洪水をひき起している。
ウィーンから船で短いクルーズに出たが、確かにウィーンの辺りでもドナウ河の水量は記憶にある限りで、かなり多かった。気候温暖化の影響で、スイスの氷河がどんどん溶けていると報じられている。
最近、スイスのような場所でも夏は暑さで大変らしい。私が初めてウィーンに行ったころ、まだウィーンのホテルには冷房の設備がなかった。「夏も涼しいから必要ない」と言われていたのだ。
しかし、今は冷房なしで過すことはとてもできない。スイスでも、ルツェルン音楽祭に参加したハーピストの吉野直子さんが「暑くて参った」と、こぽしていたことがある。
ジュネーヴのレマン湖畔に並ぶ、「ボー・リヴァージュ」「ド・ラ・ぺ」などの五ッ星の名門ホテルも、おそらく遠からず冷房を入れざるを得なくなるのではないだろうか。
一旦、主なホテルやレストランが冷房を入れ始めたら、その排気の熱で、都市の気温がさらに上る。分ってはいても、そうなるのは時間の問題のように見える。
一方で大雪、一方で酷暑。やはり、スイス辺りでもその影響からは逃げられないのだろうか……。
スイスに木彫り細工のお土産物で知られているブリエンツという小さな町がある。前に小さな木彫りの猫を買ったことがあって、今度も何か捜そうと思っていたら、何と昨年土石流で店が潰れてしまったのだという。
幸い着いてみると、真新しい建物ができ上っていて、2日前に開いたばかりだということだった。ぜひ立ち直ってほしてのだ。
棚にはまだあまり商品が並んでいなかったが、つい2つ3つ、買ってしまったのだった……。
それにしても、あのアマゾンの密林ですら砂漠化が進みつつあるという現状。その「危機」に目もくれず、戦いに明け暮れる人間とは、何と愚かな生きものだろう。(つづく)
赤川次郎「ドイツ、オーストリア旅物語」
第15回
生と死の世界 5
波 2006年6月号
新潮社
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