養生の秘密 | 月かげの虹

養生の秘密

石も木も眼(まなこ)に光る暑さかな 江戸時代前期の俳人、向井去来が捉えた暑い夏の風景が目に浮かんでくる。不思議なことに、日本の夏の高温多湿のあのねっとりとした蒸し暑さを感じさせないのは何故だろう。 むしろ、カッと照りつける夏の陽さしの炎熱の猛々しさが伝わり、きっぱりとした暑さに潔さすら感じてしまう。もとより俳句の風流を知らぬ素人の勝手な解釈ではあるのだが。 ところで、この時期、雑誌や情報番組で夏バテ対策のための健康法がよく取り上げられる。ここ数年、健康のためのノウハウが書かれた雑誌や本がブームを呼んでいるが、今から300年も前に書かれ、いまだに読まれ続ける本がある。 言わずとしれた「養生訓(ようじょうくん)」である。江戸時代の学者、貝原益軒が書いたものだが著者は当時としてはたいへんな長寿で、84歳で亡くなったようだが、益軒自身、けっして丈夫な体でなかったそうで、やはり、「養生訓」にはすぐれた健康法が詰まっているのだろう。 そもそも貝原益軒が生きていた江戸時代は、当然のことだが車も電車もなく馬に乗ったり籠に乗ったりできる人は限られていたわけで、日常の生活自体、体を動かし酷使することが多かったわけである。 そんな江戸の人たちが、殿様から庶民まで口癖のように言っていたのが「養生」という言葉だったらしい。さしずめ現代の健康ブームのようなところか? しかし、当時、養生とは単に健康法であるだけでなく、もっと広く深い意味でとらえており、それは生き方にかかわるいわば人生の指針であり、それはまた江戸を生きる人々の共有の文化であったようだ。 「養生訓」と聞くと、堅苦しくストイックな教えが説かれてるような印象があるが、決してそうでなく"人生を楽しむ"という考えが貫かれているという。 その第1にあげているのが「自然」を楽しむこと。これは今のアウトドアライフ、というようなものではなく"目の前に満ちている天の文(あや)、地の文(あや)"を見て感動することだという。 この他に益軒は「旅の楽しみ」をあげているが、彼は実に20冊を超える紀行文をまとめている。 また、愛妻を同伴して京都に2度ほど長期の旅をしているらしいが、今でいうところのフルムーン旅行の元祖ともいえよう。 先に挙げたように"目の前に満ちている天の文(あや)、地の文(あや)"に感動するということが示唆しているように、益軒は"内なる楽しみ"を人生の楽しあとした人なのである。 だから「養生訓」では体よりも心の養生を優先して説いている。今日でいうところのメンタルヘルスの先覚者といえるのかもしれない。 生命を遺伝子レベルから解明する研究が加速度的に進んでいるが、ある世界的権威によると「病は気から」というのは実は遺伝子が関係しているらしい。 たとえばガンにかかっても「絶対に治る !」と生きることに前向きでいればガンを抑える遺伝子のスイッチがオンになり、時にはガン細胞を消滅させるという実例が多数報告されていると指摘している。 さらに最先端の遺伝子の研究を通して、生命の本質には偉大なる何かが働いている、と感じさるを得ない、とも語っている。 奇しくもかの益軒も「生命への畏敬」という思想をくり返し説いているが、これこそが益軒の言うところの養生であり、最先端の科学者が見出した"偉大なる何か"とみごとに符号していることに驚かされる。と同時に、極小の遺伝子に宿る偉大なる秘密に感動を禁じ得ない。 この時期になると子供の頃に母が毎朝飲ませてくれた庭の拘杞(くこ)の木の葉をすった飲み物を思い出す。 お猪口にほんの少しだったが、あの頃から現在に至るまで夏バテをしないのはあの苦くて緑色の不思議な飲み物のおかげだと私は信じている。あなたの養生法は何ですか? 伊東 桂子「養生の秘密」 Pana Life Club 2006 Summer National Panasonic