スタンダード物語 | 月かげの虹

スタンダード物語


6. 物語
「物語」という言葉を私はこのごろよく使っていますけど、この物語というのは、いろいろな意味でつなぐ意味を持っているのです。

自分の主観的な世界と客観的な世界をつなぐ、あるいは自分とほかの人々をつなぐとか、感情的なものと思考的なものをつなぐとか、何か少しつなぎにくいものをつなごうとするときに物語というものが生まれてくるし、その物語の作り方の中にその人の個性というものが出てくるのではないか、というふうにこのごろ思うようになりました。

だからその人はどういう物語を生きようとするのか、あるいはどういう物語をcreateしようとしているのか、そしてその新しい物語のcreationのきっかけとしてillnessということがある、と考えてクライアントの人にお会いしてはどうかというふうに思い始めました。

なぜこういうことを言うかといいますと、やはりどの社会でも、どの時代でも、一応みんなの考えているような、スタンダード物語みたいなものがあるのです。

たとえば、今は少し廃れてきましたが、一般の人が考えているスタンダード物語というのは、よい中学校に入ってよい高校に入って、よい大学に入って、一流の大学を出て、一流企業に勤めて、あるいは国家公務員になって、そして出世してめでたく終る、というものです。

その間に結婚して子どもができたりとか、そういうのが幸福な物語であると一般的に思っているわけです。

そうすると、みんながその物語を生きようと思って、あるいは自分の子どもにその物語を生かせようと思って、自分の子どもをどこの学校に入れるか、どこの大学に入れるか、どこの会社に就職させようか、というふうに考えているわけですが、そういう一般的な物語というのを、生きられない状態というのが,さっき言いましたillnessなのです。

せっかく受験しようと思ったのに病気になったとか、交通事故にあったとか、いろいろ。そこからむしろ、そんなにスタンダードでない、自分の物語というのは何か、ということが出てくるのではないでしょうか。

私は、日本の平安時代、王朝時代の物語をいろいろ研究しているうちに、特にそういうことを思い始めたのです。

というのは、あの王朝時代というのも、スタンダード物語というのがあったのです。それはどういうことかというと、男の場合は位が上がって一番すごいのは自分の娘を天皇に差し出して、そこで生まれた子ども、つまり自分の孫が皇太子になって、次に天皇になる、というものです。

天皇のおじいさんになるのが最高なのです。だからあのころの物語を読んでいると、とても面白いです。権力闘争で殺し合いをして、誰が勝つかではなくて、みんなおじいさん競争をしているわけです。なんとか素晴らしい娘を産んで。

男が生まれたら全然意味がないのです。女性が天皇のところに入りこんだら、今度は生まれるのは男でないとだめなのです。今度は天皇になってもらわないといけませんから。

それをひたすら待っていて、待っているのだけどなかなか子どもが生まれなかったり、生まれた子どもが男だったり女だったりしたら悲観して、みんな必死になってその競争をしているのです。

女性の場合は、おわかりだと思いますが、内裏に入って天皇との関係ができて、子どもができて、その子どもが天皇になったら、天皇の母親になるわけですから、これは国母というのですが、とても偉大です。

ところが、あのころに源氏物語を書いた紫式部などはそのスタンダード物語にのれないのです。なぜかというと地位が低いから、内裏に入って天皇の手がつくということは、まず絶対にあり得ない。

そういうスタンダード物語から離れているということと、もう1ついいのは、あのころは女性でも経済的に相当に自立しているのです。

もう1つは、あのころは歴史とか事実とか、スタンダードの記録というのはみんな漢文で書いていたのです。ところが、自分の気持ちとか感情を書くのに適している、かな、ひらがなというものが出てきたということが幸いして、あのころ物語がたくさん生まれてくるわけです。

つまり、スタンダードな物語を生きている人は、物語を作る必要がないのです。そういうふうに言ったら、今の日本でもそう思いませんか?

スタンダードの道を歩いている人は、小説なんて読まないでしょう、全然。アホくさくて。ちゃんと出世街道をまっしぐらに行っている人は、あまり小説なんて読まないのです。

というのは、自分は満足していますから。少し外れてくると読みたくなって、我々が読んでいるわけです。

そういうふうに考えると、スタンダードの物語を生きている人のほうが、かえって非常に味気ないというか、つまらないのです。本人は面白くないことをやっていて、楽しいかもしれませんが。

そこからずれて自分の物語を探し出すということをやるのが面白い、というふうに思い始めたわけです。

そんなふうに考えますと、いろいろな人にお会いしている時に意味を感じるわけです。ただ、ここでillnessということが関係してくるということは、やはり非常に危険性があります。

一番単純でわかりやすいのが、私のクライアントの方でおられましたが、今まで小説なんて全然書かなかった方が小説を書いてこられるのです。

読んだら、ある程度面白い。ある程度面白いのだけど、本人は自分の書いた物語に酔っていますから,「これで仕事を辞めて作家になろうかと思います」と、そういうことを言われる人があるのです。

そのときに,「あなたにとっては、これは意味のある仕事ですが、作家としては食っていけません」ということをどこかで言わねばならないのです。これが大変難しいです。あまり早く言うと、余計にまたガタンとなられますから。

なかなか面白いということと,面白いけど金の価値には換算できない、ということをどのようにその人に伝えていくかという、これがなかなか難しいです。

ユングもそのような例を実際に挙げています。そういう危険性が、このcreativityという場合に考えられます。

本人としては、主観的価値は非常に高いのですけど、それがそのまま実際商業価値に結びつくかというと、決してそうとはいえないという難しさがあります。

つづく

河合隼雄「創造性の秘密」
第51回日本病跡学会 特別講演

日本病跡学会雑誌
No.68 
2004年12月25日発行