光と闇の思索者 | 月かげの虹

光と闇の思索者


暗い深い闇を背景に、額に皺の刻まれた男がかがみ、両手でおさえた角材に穴を開けている。その前に腰掛けた少年が右手で蝋燭をかかげ、その仕事をじーっと見守っている。

蝋燭の炎がふたりの顔の接したわずかな空間だけをほの明るく照らし出し、蝋燭にそっと寄せた少年の左の掌は炎の光を通して透きとおっている。神秘的な場面にだれしも一瞬息をのむ。

17世紀のフランスの画家ラ・トゥールの油彩画「大工の聖ヨセフ」。ルーヴル美術館所蔵の137x102センチの大作。

男がヨセフとすれば、少年はイエス・キリスト。少年イエスを描いた絵としても珍しいが、働く父とふたりで描かれたイエスも珍しい。

少年イエスの顔は蝋燭の光を受け、霊的ともいえる輝きを放っている。ヨセフの握っている道具が十字の形になっているのは、磔になるイエスの未来を暗示しているのか……。

よく見ると、少年の眼は父に注がれているのではなく父の左肩の後方、はるか闇の彼方を見つめている。はやくも少年は自分の行くべき道を知っていたのであろうか。

それを察知してか、息子と眼を合かせないで、うつむいて仕事をしている父ヨセフ。すこし開いた少年イエスの唇は何を語ろうとしているのか……。

温かいはずの蝋燭の光もなにか悲哀感をただよわせ、それが、この画面に深い精神性そして宗教性をかもし出している。
ラ・トゥールは、明るい昼や外光による「昼の絵」も描いているが、彼の傑作といえるのは深い闇の中で蝋燭の光に照らし出された人びとを描いた「夜の絵」である。

光の画家といえばレンブラントやフェルメールがいるが、彼らはいずれも外光による光線である。ラ・トゥールは蝋燭の炎という光にこだわった。闇の中でみずからの身を燃やしながら光を発する炎という光源に執着した。

ラ・トゥールの時代の蝋燭は獣魚油や石蝋などが原料で、しかも芯が太かったので、この絵のように炎が大きく、煤も多かった。「闇と光の画家」は煤だらけになって絵筆をとっていたのであろう。

旧約聖書「創世記」第3節は、天地創造について、「神が『光よ。あれ』と仰せられた。すると光がでてきた」と語っている。この世界がうまれるためには、まずこの世界を照ちす光が必要であった。こうして光と闇ができ、朝と夜ができた。

しかし、この世の真実の光「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネの福音書、第1章8節)、それがイエスであった。イエスは自分を「わたしは世の光です」(ヨハネの福音書(第8章12節)と言っている。

絵画といえば宗教画の時代、ラ・トゥールは「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ福音書、第1章5節)という神の光を描きたかったのであろう。

それには、外から射す光ではなく、蝋燭の炎という内から射す光でなければならなかった。

現代は科学の力によって闇の世界を征服し、昼と夜の区別を失い、24時間この世界は闇というものを失った。それは闇があってこそ輝く光の存在を見失うことでもあった。

生と死の実相へのまなざしを曇らせ、人間のもともと持っている生と死への想像力を衰弱させた。ラ・トゥールの「夜の絵」は、かつての光と闇の境がくっきりとしていた時代へといざなう。

それは、ペストや飢饉や戦争の災禍に人びとが日夜責め立てられ、「死を想へ(メメント・モリ)」の声が通奏低音のように響いていた時代であった。

しかし、死の闇を直視していた人たちはまた、生の光をも現代人以上に感知していた。光は日常生活に役立つたんなる照明ではない。

人間が生きていく希望であり道標であった。ラ・トゥールが描く少年イエスのかかげる蝋燭の光は、そのことを私たちに気づかせるのである。

ラ・トゥールの時代はもとより今日のような電灯はなかった。照明としては灯火(ランプ)か松明そして蝋燭であった。

今日の電灯はすべてを昼と同じように明るく照らす。夜を昼に変え、闇という存在を追放した。それが近代文明であり、近代人はしたがって闇という世界を失い、それゆえ光についての思索を忘れさせた。

なにより電灯による光は電灯そのものが光源ではない。外から送られてくる電気によって光る器具である。光源は外にある。電灯の光はあくまでも明るく眩く力強い光である。物理的で無機的な光である。

ところが、蝋燭はみずからを燃やして周囲を照らす。自分自身が光源である。内なる光源によって光る。

「蝋燭は身を減らして人を照らす」という日本の諺があるが、松明やランプのように燃料を足せば燃えつづけるというのではない。1本の蝋燭は燃え尽きれば終わる。

芯と蝋を燃やして終わる蝋燭は、心とからだを燃やして終わる人間に似ている。時間とともにわが身を滅ぼしていぐ蝋燭は人のいのちを思わせる。

蝋燭の光はもとより風によって揺らめくが、風がなくてもかすかに揺らめく。それは見る者の心の揺らめきのように思える。

それだけに、おぼつかなく揺れながら燃える蝋燭の炎は、あたかも生きているかのように見える。それは儚く哀しく懐かしい光である。人間的で情感的な光である。蝋燭はそれ自身、光と闇、生と死、心とからだの思索者といえる。

人はなぜ祈ったり悼んだりするとき、電灯でなく蝋燭を使うのか。今日の私たちも祈り悼む心を表わすときは蝋燭を使う。

キャンドルサービスといったかたちで、洋の東西を問わず祈願や哀悼や鎮魂の場で用いられる。蝋燭の炎は祝祭空間の演出者でもある。

ラ・トゥールが蝋燭の炎で描きたかったのは、キリスト教でいう光であったかもしれない。しかし、異教徒の私たちは、神の光というより、そこに魂の奥底から発する霊的な光、みずからを燃やして輝く聖なる光を思う。

光と闇、明と暗、生と死という相対立するものが溶け合う境地を大事にする日本人のメンタリティにとって、蝋燭の光はもっとも親密な光である。

作家の谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』(昭和8年)で、日本の文化における闇の効用について述べ、蝋燭のほのかな光に照らし出された漆器やロ紅の魅力をことばをつくして語り、「灯に照らされた闇」という逆説的なことばで、蝋燭の光が射しながら、その光が闇を穿つことができない深い闇について語っている。

ラ・トゥールの闇と光はそんな日本的ともいえる闇であり光である。乱れやすい心を鎮めようと、歌人鈴木孝輔はこう詠んでいる。

乱れやすきものと見れども蝋の火の焔が円く澄めるをりふし

立川昭二「蝋燭、光と闇の思索者」
北里大学名誉教授

癒しの美術館 30
ラ・トゥール『大工の聖ヨセフ』
Vita 2006/4・5・6
Vol.23 No.2(通巻95)
(株)BML