京のイケズ | 月かげの虹

京のイケズ


入江敦彦は、京都についての本を、何冊も書いてきた。それらはみなおもしろく、またじっさいに、よく売れてもいる。今回の『イケズ美人』もまた、ひろく読まれることだろう。

私ごときが、少々イケズロをたたいても、営業妨害にはなるまい。安心して、辛口のコメントを書くことにする。

じつは、入江の本をあれこれ論じるのも、これが3回目である。入江が京都のことを本にすると、なぜか私のところへ書評の御鉢がまわってくる。とうとう、今回は版元から、その依頼をいただいた.

どうして、いつも私なんだ。私は入江の書評番じゃあないぞ。そんな違和感は、どうしてもわいてくる。

それに、入江だって、いいかげんうんざりしてもいるだろう。また、井上がからむのか。もう、読みあきたよ、と。そんな入江の表情も、まだお目にかかったことはないが、想いうかぶだけに、筆はすすまない。

おまけに、この一文を書いているのは、3月13日。税金の確定申告書類をしあげている最中である。どうやら、税務署には、けっこうまきあげられそうなことがわかってきた。

その直後にこの原稿へ、私はむかっている。おだやかな気分で、作文のできようはずがない。版元にももうしわけないが、少々のトゲやカドは、大目に見てほしいと思う。

本題にはいる。
入江は、女たちヘイケズになれと、説いている。イケズな物言いを身につければ、女の魅力がみがかれる。女ぶりもぐっとあがって、「イケズ美人」になれることをうけあおうというのである。

しかし、どうだろう。イケズを言われて、何も言いかえせなかった男は、やはり彼女をにくむのではないか。「イケズ美人」どころか、鬼女のように思うような気もする。

イケズな女をよろこべるのは、イケズロの応酬ができる男にかぎられよう。やられたらやりかえす。そんな言葉をたがいにもてあそべる関係がきずければ、たのしい社交も成立する。そして、それだけの瞬発力がある男には、イケズな女も魅力的にうつるだろう。

「イケズ美人」だと思われるためには、そういう相手をさがさなければならない。そして、それはけっこう骨のおれる作業だと思う。入江には、イケズの応戦力がある男のさがしかたも、おしえてほしかった。

それとも、どうだろう。最近は、日本人の民度もあがってきた。イケズな社交をたのしめる男も、ふえている。女たちよ、安心してイケズ技をみがけ。イケズな口ぶりに魅せられる男も、現代日本にならおおぜいいるはずだ。そんな判断も、入江にはあるのだろうか。

気になることが、ひとつある。入江はこの本で、誰でもイケズになれると書いている。「イケズは京都が産地ですが、京言葉を覚える必要なんてありません。精神(スピリッツ)さえあればふだんあなたが話している言葉で充分に応用が可能なものなのです」。

以前の入江は、よそ者になどわからぬ京都のエスプリを、うたっていたと思う。だが、この本では「よそさん」を許容する方向へ、すこし姿勢をかえだした。なんだか、京野菜が全国展開で売りだされている光景を、見せられたような気もする。そこのところは、ややせつない。

やはり、民度の向上という状況認識が、入江にはありそうだ。日本中で、いや全世界でイケズはたのしめるというふうに、話をすすめている。前は、京都ならではの文化で、あとはロンドンぐらいしか追随できないと、言っていたのに。

ひょっとしたら、問題はべつのところにあるのかもしれない。私の実感だが、京都では、イケズな女がへってきているように思う。イケズに華のあった京女たちを、このごろはだんだん見かけなくなってきた。

ながらくイケズをはぐくんできた洛中も、空洞化の時期をむかえている。イケズの能力をもった人々も、全国各地へちらばった。遠くは、入江がすんでいるロンドンあたりにまで。

そして、洛中では、イケズとは縁のない「よそさん」がふえていく。私のような。グローバルなイケズのことあげは、京都のそれが衰亡したことによる必然なのかもしれない。

井上章一「京のイケズのゆくえ」
(いのうえ・しょういち 評論家)

入江敦彦『イケズ美人』
4-10-467503-2

波 2006年4月号
新潮社
¥100