方言はあかんのン
大阪方言の「あかん」は「将あかぬ」から生まれたという。私のような大阪人にとっては、「だめだ」と言われるより、どこか救われたような気持ちになることばだ。
牧村史陽『大阪ことば事典』は「大阪では、これを『アカン』と軽くすかしてしまうところに、何ともいえぬやわらかい味がにじみ出す」としている。
10年ほど前の話だが、福島県出身の職場の同僚から「東北の人間からすると、『あかん』は冷たく感じる」と言われたことがあった。「だめだ」の方が優しく聞こえるのだそうだ。ことばの感覚にはこうも違いがあるのかと驚いたものである。
ただ、少しは事情が変わってきているようで、福島県の高校生を対象とした調査(半沢康「東北地方における関西方言の受容実態」)によれば、「あかん(・いかん)の使用率は24%という回答結果になっている(陣内正敬他編『関西方言の広がりとコミュニケーションの行方』和泉書院、2005年)。
「あかん」の柔らかいイメージが東北にも少しは伝わるようになったのかもしれない。もっとも、常に「やわらかい味がにじみ出す」とは限らない。
研究者というもう一足の草鞋(わらじ)を履く。私の目下の研究テーマは「法廷における方言の役割」である。先日知人から借りた公判資料の中にこんな使われ方があった。
「全部撤去して地盤改良せなあかんというような意見を出されているわけですか」。前後の文脈からすると、この場合は相手方を強く批判する役割を果たしている。
研究を進めるうちに、法廷からは方言が締め出される方向にあることが明らかになってきた。最高裁が音声認識装置の導入を検討しているのはその一例だろう。
法廷でのやりとりの忠実な記録に大きな貢献を果たしてきた速記官の養成は中止するという。
「きついなまりや方言については、(中略)裁判官は標準語に直してもらうことで初めて心証を取るわけですから、そういう意味では方言がどういう意味だったかは、ほとんどの場合それほど重要なことではないわけであります」(2004年3月18日参議院での最高裁の答弁)。
2009年5月までにスタートする裁判員制度のキャッチフレーズは「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加します」だが、答弁を聞く限りでは「私」を「裁判官」に直した方がぴったりくる。
「方言の時代」などと方言がもてはやされる風潮にあるが、おめでたい話ばかりではないのだ。
環境権を巡る裁判の嚆矢(こうし)となった「豊前環境権裁判」のリーダーで作家の故松下竜一氏は次のように訴えている。「暮らしのなかから生まれたことばにこそ耳を傾けていただきたい」(『豊前環境権裁判』日本評論社、1980年)。
今回上梓した『大阪弁「ほんまもん」講座』にも同様の想いが込められている。
札埜和男「方言はあかんのン?」
『大阪弁「ほんまもん」講座』
札埜和男(ふだの・かずお 高等学校国語科教諭)
波 2006年4月号
新潮社
¥100