自傷行為 | 月かげの虹

自傷行為


リストカットなどの自傷行為を扱った書籍が売れている。近年でも、夭折した自傷少女南条あやの遺稿『卒業式まで死にません』、さらに自傷をする女子高生を主人公とした漫画『ライフ』が、ベストセラーとなっている。

インターネットでも、自傷関連のウェブサイトはそれこそ星の数ほど存在する。こうした現象は、自傷行為に共感を覚える若者が少なくないことを暗示している。

実際、「夜回り先生」こと水谷修氏によれば、若者のあいだで、自傷行為はいまや薬物乱用をしのぐ深刻な問題となっているという。

自傷行為が薬物乱用をしのぐ問題かどうかはさておき、自傷行為と薬物乱用のあいだには少なくとも2つの共通点がある。1つは、いずれも故意に自分の健康を損なう行為であり、もう1つは、生きづらさを抱えた若者たちのなかで、一種の伝染性を持ちうることである。

後者が問題である。これが事態の深刻さを覆い隠し、彼らの援助を難しくする。「死ぬ気もないくせに、南条あやのマネをして……」。

当事者にふりまわされて疲れ切った家族や援助者が憤りながらそう語るのを、私は何度となく聞いてきた。だが、本当にそれでいいのだろうか?

リス力とアム力
自傷行為といえば、精神科医療関係者ならば誰もがただちに、「手首自傷症候群(リストカッティング・シンドローム)」を思い出すであろう。

その影響力は予想を超えて根強く、現在でも自傷行為=リストカットという理解が定着している。そして多くの援助者が、リストカットは、境界性人格障害の患者にみられる、演技的で操作的な行動と信じている。

私も研修医時代に指導医から、「自傷行為に関心を持つな。ふりまわされるな。傷の処置も看護スタッフか外科医に任せろ。でないと癖になる」と叱られ、「そうか、そういうものか」と無理に自分を納得させた覚えがある。

しかし実は、こうした自傷行為に関する「常識」には、いくつかの誤りがあるのだ。そもそも最近の精神科診察案で出会う自傷患者の多くは、リストカットをしていない。彼らの大半は、リスト=手首ではなく、アーム=腕(前腕・上腕)を切っている。

実は、当事者たちはとっくにこれに気づいていて、リストカットを「リスカ」なる略称で呼ぶのと同じように、腕を切る=アームカットについても、「アムカ」なる略称まで生まれた。

そのように腕を切っているから、夏場でなければ洋服の袖口から傷がちらちらとのぞくこともない。当然、自分からその傷を顕示して医師の関心を惹こうともせず、こちらから聴かなければ、患者の自傷行為を見逃すことさえある。

何よりも印象的なのは、診察室で向き合っているのに、不思議と遠くにいる感じがすることだ。引きつった自嘲的な笑みを凍らせたまま、「どうせわかんないでしょ」と投げやりでもある。精神科医をふりまわすどころか、そもそも信用もしてなければ、あてにもしていない気さえする。

それにしても、手首を切る者と腕を切る者ではどんな違いがあるのだろうか。私はそれを調査したことがある。

その結果、手首だけを切っているものは、これまでの自傷回数がさほど多くはなく、「死のうと思って」自傷におよぶ傾向がみられた。手首には皮膚から近いところに動脈があることを思えば、当然といえるかもしれない。

一方腕だけを切っている者は、早くから頻回に自傷をくりかえしている者が多く、「怒りを抑えるために」に自傷におよぶ傾向がみられた。つまり、不快な感情に対処するために行っていたのだ。さらに驚いたことに、腕を切る者は解離傾向が著しかったのである。

リスカとアムカ。いずれの自傷行為がより精神医学的に重篤であるかを、一概にいうのはむずかしい。ただ、いずれがより自傷行為として中核であるかなら答えることができる。

ある研究者は自傷行為を、「故意に行われる、自分の身体表層に対する非致死的な傷害であり、明らかな自殺の意図はなく、しばしば気分を変える目的からくりかえし行われる」と定義している。

別の研究者は、自傷行為を「解離性」と「非解離性」に分類し、前者を中核的な自傷行為であると指摘している。こうした定義・分類にしたがえば、リストカットよりも、「気分を変えるために」「くりかえし行われる」という特徴を持つアームカットの方が、より中核的な目傷行為であるといえよう。

自傷と解離
「死にたくて自傷しているわけじゃない。生きるのに必要なもの」
「切ると気分がスッキリしてイライラが治まる」
「心の痛みを身体の痛みに置き換えている」
「自傷は私にとって安定剤みたいなもの」。


まるで申し合わせたように、患者たちはいう。自傷行為が民間療法の1つであるような口ぶりである。

さらに彼らの多くは、自傷している最中には痛みを感じないか、感じていたとしてもその感覚は鈍く、ときにはその行為をした記憶さえ曖昧な場合もあるようだ。まるで半眠りの幽体離脱状態だが、これが解離という現象である。

自傷行為には解離症状を減少させる効果がある。自傷患者は、平常時から痛みに鈍感であるが、怒りや恥の感覚などの不快感情を体験するといっそう痛みに鈍くなる。解離による知覚鈍麻である。

一般に怒りや恥の感覚は、自傷患者の多くが持っている外傷記憶を賦活させやすいが、万一封印されている記憶の箱が一気に開いてしまえば、突然の感情暴発や自殺の危険が高まるであろう。

解離には、心に煙幕を張って、そうした危機的状況を回避する働きがある。しかしその一方で、解離状態に長い時間逃げ込んでいると、文字通り「生きているのか、死んでいるのか」もわからなくなり、冷ややかな灰色の沈黙のなかで自分を見失いかけてしまう。

こうした状態からふたたび現実の世界に戻るには、自傷行為……正確には、自傷によってもたらされる痛み刺激や鮮やかな血液の色彩……が必要となる。

「切っているうちにだんだんと痛みを感じてきて、それで流れている血を見ると、『あ、生きている』と思ってホッとする」と語る自傷者は少なくない。

そして回復したとき、怒りや恥の感覚は消え失せ、さっきまで痛んでいた心は見事にリセットされている。

したがって、患者が、「自傷は生きるために必要」というのもうなずける話ではある。かつて自傷行為のことを「局所的自殺」といった精神科医がいた。至言である。確かに自傷行為は、ある種の爬虫類が命とひきかえに尾を犠牲にするのとよく似ている。

しかしだからといって、われわれは患者の自傷行為を容認することはできない。理由は2つある。

1つは、「心の痛み」が一時的に消失しても、それは解決を先延ばしにしただけであって、問題は依然として残るからである。

もう1つは、この「生きるため」の自傷行為はエスカレートし、その果てには死が見えてきてしまうからである。