糟糠の妻 | 月かげの虹

糟糠の妻


文字を中国から輸入した日本人は、当然のことながら日常会話のなかで、なにげなく使っている言葉でも、中国の故事に由来することが結構たくさんある。

「糟糠の妻」もそうである。私は、ぬかみそ臭い古女房のことだと教えられていたが、それは間違いだった。

陳舜臣の「中国の歴史」巻5、79ぺージには、ほのぼのとした心暖まる解説がある。

後漢の光武帝(劉秀)は、姉の湖陽公主が夫を失って未亡人となったとき、朝臣のなかのだれかと再婚させたいと思いました。

それとなく朝臣を品評して、姉の意見を聞くと、「宋公の威容と徳器は、群臣の及ぶなし」ということでした。

宋公とは、長安出身で大司空にも広った宋弘のことです。そこで、光武帝は姉のために、ひと肌脱ごうと、宋弘を呼び、屏風の後ろに姉を坐らせておきました。

「諺に言う、貴ければ交(とも)を易(か)え、富めば妻を易う、と。人情ならん乎(か)?」

光武帝は宋弘に、そう話し掛けました。大司空になり、列候となったのだから、妻を取り替えてはどうか、それが人情というものではないか、という意味です。

それに対して、宋弘は次のように答えました。

「臣聞く、貧賎の交(とも)は忘る可からず、糟糠の妻は堂より下さず」と。

貧しいときの友人は忘れてはならないし、糟や糠ばかり食べて苦労をともにした妻は、家から追い出してはならないというのです。

光武帝は、あとで屏風の後ろにいる姉の方を見て、「事、諧(かな)わず」といいました。

古女房のことを、よく「糟糠の妻」というのは、宋弘のこのエピソードからきている。後漢は礼教時代であるが、宋弘などは、さしずめ時代の模範生といえるだろう。

川崎 健一郎「糟糠の妻」
東京都西多摩医師会報
No. 387より

日医ニュース No.1069
2006.3.20

日本医師会