ギフチョウの思い出
何かというと暖冬だ、温暖化だといわれる今、ちょっと想像もつかないかも知れないが、ぼくがまだ子どもだったころ、日本の冬はほんとうに寒かった。
家の中の暖房といったら火鉢かこたつだけだった。家族が火鉢のまわりに集まって、炭火で手をあぶりながら背中の寒さをこらえていたり、みんながこたつにもぐりこんで、ミカンを食べたりしていたものだ。
こたつにかぶせたふとんの中は温かかったが、背中はしんしんと冷えるばかり。ガラス戸越しに外を見ると、どんよりと曇った空が、まぎれもなく冬を告げていた。今とくらべて、冬の気温が低かったことはたしかである。
学校では日本の冬は三寒四温と教わった。三日ほど寒い日がつづくと、その後は四日ほど少し温かい日がくるというのである。でもどうして温の日のほうが多いのかといぶかることも多かった。
それは気温だけの問題ではなく、そのころの日本の食料事情のせいでもあっただろう。今とくらべたらはるかにカロリーも栄養も少ない食べものしかなかったから、冬の寒さがよけい身に沁みて感じられていたのではなかったろうか。
厚いラクダのシャツとかズボン下、あるいは大きな袖のような部分のある「夜具」と呼ばれた厚くて重い掛け布団とか、今思うと信じられないような物もあった。
だから2月も終わりごろ、あるいは3月に入ってから、少し温かい日があって、夜中にふと目がさめたとき、しとしとと雨が降る音に気づいたりすると、ぼくは子ども心に、ああ、春雨だなと思って、心が震えるほどのうれしさを感じたものだった。
乾ききった土がその雨で湿り、去年の秋に植えたチューリップの球根が土の中で、やっと小さな芽を出している姿を想像したからであった。
そんな小学生時代の終わりごろ、ぼくはほんとうにふとした機会に、宮川澄昭さんという若い歯医者さんに出会った。宮川さんは亡くなったお父さんの跡を継いで歯科医になったばかりだったけれど、蝶が大好きな人だった。
夏、近くの神社でクスノキの葉につくアオスジアゲハという蝶の幼虫を探しているときに、「幼虫ですか?」とぼくに声をかけてきたのがこの人だった。
そのころは日中戦争のまっ最中。出征する兵士を送ったり、人々が「漢口陥落万歳」の提灯行列をしたりしているという、ぼくにとってはよくわけもわからない時代だったから、昆虫のことなどだれも気にしていなかった。せいぜい「虫取り」ということばがあったくらいである。
そんなとき、いきなり「幼虫ですか?」と聞かれたぼくは、ほんとうにびっくりした。それからぼくは、宮川さんから蝶のこと、昆虫のことをたくさん教わった。その1つがギフチョウという蝶のことだった。
春になると、山にいろいろな蝶が出てくるという。宮川さんは図鑑や標本で、そういう蝶たちの話をしてくれた。
それはぼくが見たこともない蝶ばかりだった。東京ではずっと西の高尾山という山に行くと、こういう蝶が見られるとか。「中でもいちばんきれいなのはギフチョウだ。1年に1回、4月のはじめにしか出ない。それがクズ(葛)の花にとまって蜜を吸っている姿なんて、一度見たら忘れられないよ」
あとで考えたら、このクズの花というのは宮川さんの言いまちがいで、ほんとうはカタクリの花のことだったのだが、そんなことはどうでもよかった。とにかくぼくは、春になったらその高尾山というところへ行って、ギフチョウの飛ぶところを見たくてたまらなくなった。
立春と聞くとギフチョウを思うようになったのはそれからのことである。大げさに言えば、春を待つという漠然とした気持ちに、はっきりした目標ができたのだ。
けれど、実物のギフチョウを見るにはそれから何年もかかった。宮川さんが地図まで書いて教えてくれた高尾山へ行っても、雨が降ったり、寒かったりして、ギフチョウはちらりとも見られなかった。
その後もぼくは、ギフチョウを一目でも見たいばっかりに、いろいろな山に出かけて行った。宮川さん自身に連れていってもらったこともある。宮川さんが昔ここで見たという山でも、一匹のギフチョウもいなかった。
それはギフチョウが卵を産み、幼虫が食べて育つカンアオイという草がなくなったからではないかと宮川さんは言った。けれどそこには、カンアオイの仲間のフタバアオイという草が、少しずつながらまだちゃんと生えていた。けれどギフチョウはもういない。なぜだろう?そのわけは結局わからなかった。
そもそもギフチョウは、なぜ1年に1回しか現れないのだろう? そんなこともぼくにはふしぎに思えてきた。その後何年も経ってから、ぼくはそれを知りたくなって調べてみた。このことは前にこの「猫の目草」に書いたから、読んで下さった人もいるはずだ。
とにかくその後何年も経つ間に、自然とはじつに奥の深いものであることを、ぼくは次第に知るようになったのである。
日高敏隆「立春という言葉に思う」
(ひだか・としたか 人間文化研究機構・地球研所長)
猫の目草(ねこのめぐさ)
波 2006年3月号
新潮社
¥100