スローライフ | 月かげの虹

スローライフ


スローフード運動を始めたイタリア人に会わないか。そういわれたことがある。そりゃなんだと思って、実体を知りたいと思ったが、会う暇がなかった。

そのあと島村菜津さんの『スローフードな人生!』(新潮文庫)を読んで、そういうものか、と納得した。べつに私はスローライフやスローフード運動を実践しているわけではない。

田舎と都会を往復するという、参勤交代運動だけで十分である。分刻みまでは行かないが、予定表が隙間もなく詰まった生活では、スローライフどころではない。

スローフードについてはさらに向かない面がある。なにしろ戦中戦後の食糧難育ち、食べ物なんてありさえすればいい。グルメなんてくそ食らえ。そういう気持ちがどこかに残っている。

それでも仕事柄、外食することが多くなったら、なんだか具合が悪い。食べ物の文句をいいたくなる。大学をやめ、虫取りに東南アジアに行くようになって、日本の野菜がまずいことに気がついた。味がない、匂いがない。

多摩動物公園昆虫園の職員が、スーパーで小松菜を買ってバッタに食わせたら、全部死んだ。そんな話を聞いてまもなく、中国野菜の農薬の報道が出た。

厚生労働省はタバコを目の敵にしているが、タバコは単体として取り出せるからわかりやすい。食物はそうはいかない。なにを食おうが、十分生き延びているじゃないかという意見もある。

それならタバコも同じである。なにしろ日本人はほとんど世界一の平均寿命を誇っているから、なにかが健康に害があるといっても、ぴんと来ない。狂牛病ではないが、死ぬところまで行かないと、まじめに考えない。

不法行為が実際に起こらないと、手がつけられませんという、警察と同じである。気づかれただろうか。スローフードの一面は、うっかりすると管理社会なのである。

健康に害があるから、タバコをやめなさいという厚生労働省と、ファーストフードなんか食えるかという運動は、乱暴に考えると重なってしまう。

なにかを対象にして、それを排除する。この10年で、日本政府は法令を何100か作ったという話を聞いた。正確なところは知らないが、規則さえ作れば世の中うまく行く。まさかそんなことは考えていないでしょうね。というより、規則を作るのが仕事という人たちを作ってしまったから、そうなる。

島村さんの近著は『スローフードな日本!』である。大根、ドジョウ、牡礪、大豆、牛肉、現代の食物を総ざらいして、裏がどうなっているかを追及する。

紹介するのは面倒くさい。なぜって、その面倒くささこそが、スローフード運動だからである。なぜ面倒かというと、あれとこれ、それとあれでは、「話が違う」からである。その違いがわからない人が増えてきた。だから規則を作れば済むと思ってしまう。

環境問題では、それを生物多様性という。漢字が5つ並んだこの言葉は、たいていの人が敬遠してしまう。スローフードが「面倒くさい」のと同じである。

なぜ生き物があれだけいなけりゃならんのだ。人間だけで十分じゃないか。適者生存なんだろ。それなら人間が適者で、あとはいらない。本音では、そう信じている人が多いんじゃないだろうか。

人間以外の生き物のお世話になっているなんて、夢にも思っていない。おなかの中に、どれだけの生き物が住んでいるかなんて、考えたこともない。

スローフード運動を、私は感覚の復権と考えている。「うまいもの」って、感覚ですからね。われわれの意識は、感覚世界と概念世界に分かれる。感覚の世界ではすべては異なるが、概念の世界はそれを「同じ」だとする。

概念は単に「うまい」という。感覚の世界では、うまいものはそれぞれにうまく、まずいものもそれぞれにまずい。それだけのことなのだが、その世界を実現するのが困難なのである。

なぜなら世界を人はシステム化するからである。システムのなかではコーヒーはスターバックス、そのなかに大中小、濃淡がある。それは白馬と馬の違いに過ぎない。馬はそれぞれ、全部違うんですよ。

昔の喫茶店はそれぞれが、それぞれだった。現代人はそれを嫌う。統一がとれてないじゃないか。値段がめちゃめちゃじゃないか。じゃあ聞くが、俺の1ヶ月の労働と、パソコン1台がなぜ同じ値段なのだ。その論理はどこにあるのか。

概念の世界は一切空で、要するに、と一言でいえる世界である。なにしろゼロと1しかないんだから。感覚は違う。脳科学ではそれをクオリアという。クオリアは物理的には説明不能なのである。

『スローフードな日本!』はどこに行ったか。宣伝するはずだったのに。感覚は一言で説明できない。こういう本は、それぞれにちゃんと読んでもらうしかない。本気で読んでくださいよ。そうお願いするしかない。それこそがスローライフの始まりなのである。

養老孟司「スローライフの始まり」
ようろう・たけし
解剖学者

島村菜津『スローフードな日本!』
4-10-401103-7

波 2006年3月号
新潮社
¥100