恋は粘りが勝負 | 月かげの虹

恋は粘りが勝負


昔、電化製品がショートして、バチッと青い光を発したと同時に使えなくなることがよくあった。

タコ足配線をしていたり、だらしなくコタツのコードを持ってプラグをコンセントから引き抜いていたりすると起こることだ。

よく感電死しなかったと、今から思えば怖い話だ。けれども、簡単に自力で修理できるような年頃になると、一人前の男になったように感じた。

ネジ回し1本あれば、プラグをばらして黒く焼けた電線を切り、赤や青のビニールをはがして、新しい電線を電極につなぎ直すことができる。修理が済んで、最後に電極のネジを締めなおす時の気持ちよさったらなかった。

女の私がヘンな話だけれど、男と感じたのは、我家の中では、電球1個取り替えるのも父、あるいは男の仕事という不文律が厳密に守られていたせいだ。

松田さんと本というモノの関係は、ネジ回しというモノの力で性別が変わった気分になれる私のような単純なものではない。

編集稼業に目覚めて、オブジェとしての本に興味を持ち、恋をするまでになり、相手を理解して、一体化するために、お見合い前の家柄調べのように構成要素を調べて、仮に失望しても自分の力不足を反省してみたりして、とにかくすべてを包容しようとする。

恋をすると、努力の人になるタイプなのだろうか ? 

筑摩書房の名編集者として数々の本を世に出し、TVでも毎週本の魅力を語り続ける松田さん。

「活字離れ」の時代の、出版界の広報部長のような人だ。長年の恋を語るとなれば、一筋縄ではゆかない。読者としても、目からウロコの本になった。

恋の顛末を語る眼となり、頭の中のイメージを代弁する役目は、内澤旬子さんのイラストが務めている。松田さんの視線の動きや注視する速度を伝えるには、カメラではかえって遅いし不自由だ。

絵しかできないクローズアップや、レントゲン写真のように隠れた部分を透視したりして、恋路のありさまを見事に伝えた。

さて、松田さんは恋しい相手を知るためにどうしたか ?  編集者として思い出深い仕事である『ちくま文学の森』第1回配本の「美しい恋の物語」「変身ものがたり」を、「心の中で『ごめんね』と言いながら」バラすことにした。

帯、力バーを外し、見返しと本文の間にカッターを入れて切り離し、表紙から分離された本文を解体する。本のノド側には花布(はなぎれ)と呼ばれる布がついているが、私はこの布がいつも襦袢のように見えて、色っぽい気分になる。

本を手で製本していた頃、花布のあるノドの折丁の部分はルリュールと呼ばれる技で糸かがりされていて、強度を保つために重要なところだった。

私は、銅版画の本を製本してもらった時にその精巧な技を見たことがあるが、今の花布はこれまでの名残りでついているだけらしい。

便利で大好きなスピンに本文紙。手元にある本を比べていると、今さらながら、色んな本文紙があるのに驚く。しなやかさ、白さ、風合い、匂い。文字の乗り方までそれぞれ違う。

我が家の書棚に並んでいる本までこんな風に見えてくるということは、私も恋の熱気にあてられてきたわけだ。

『ちくま文学の森』は、いまでは珍しい「糸かがり」である。本を綴じるものも糸から強度を増してゆく接着剤に主役は移り、「あじろ綴じ」「無線綴じ」と技術は進歩してゆく。

しかし、出版社・製本所は一度造本を決めたら、「ある本を刷り続け、売り続けている限りは、最初のかたちをきちんと踏襲し続けている」そうだ。

それが、「頑なに最初のかたちを死守している」と言われても、「かたちも含めて文化だという意識は大事に持ち続ける」ことにつながるわけだ。

「本」を作っているのは「人」だ。松田さんは様々なジャンルの匠に出会って、"ヘー"とか"ほー"とか感心しながら「本」のなかをずんずん探検してゆく。いくらベテラン編集者だって、印刷や製本やインキの世界は知らないことだらけだ。

あまりに専門的で伝えるのが難しい世界を、エッセイ・辞書・歴史書・技術書などたくさんのジャンルの文章テクニックを駆使して表現し、現場で働いている人たちとの対話でより理解を進め、最後に感想をポツッと眩く。

こんな風に粘り強く「本」に迫らないと「恋」は成就しないものか。ゆきずりに出会ったネジ回し1本で男になる尻軽の私とは違い、松田さんのモノとの恋はとても崇高だ。

山本容子「恋は粘りが勝負」
やまもと・ようこ 銅版画家

松田哲夫(イラスト・内澤旬子)
『「本」に恋して』
4-10-300951-9

波 2006年3月号
新潮社
¥100