波長が合う音楽
この間、神保町に立ち寄ったとき、喫茶店に入った。『ミロンガ』という、今どき珍しいタンゴ喫茶である。もちろん新しい店ではない。何しろ僕が学生のときからある。鎌倉の家から東大へ通う道筋でもあり、本を買いに行ったついでなどによく寄ったものだ。
なぜタンゴが好きかと言われても、よくわからない。子供のころは軍歌を歌うのが得意だった。戦時中だったから、多分ラジオから、それしか流れていなかったせいだろう。
ただ、姉が聴いていたレコードのなかに、コンチネンタルタンゴがあったのは覚えている。それから大学時代の友達にマニアックなのがいて、彼の家に遊びに行くと、アルゼンチンタンゴをいやというほど聴かされた。
この友達のおかげで、タンゴ好きはオタクというイメージが出来上がってしまったが、このあたりの影響があるかもしれない。
もっと一般的な音楽でよく聴くのは中島みゆき。強いて好みの一曲をあげれば、加藤登紀子も歌っている『この空を飛べたら」だろうか。コンサートヘも行きたいと思っているのだが、時間がとれず未遂の状態である。
研ナオコもよく聴く。実を言うと、『あばよ』のように、中島みゆきの曲を研ナオコが歌っているのが、いちばんいい。研ナオコの歌のテンポが僕には合うようなのだ。
歌はテンポが肝心。物理学でいう共鳴である。文章もそうだが、波長が合わないと、いくらいいものだからと薦(すす)められても、どうにもならない。
免疫系に好影響を及ぼす音楽療法というものがあるくらいだから、好きで聴いているだけの音楽にも何か効用はあるはずだ。タンゴも中島みゆきも非常に強く情緒的。
僕の仕事は理屈を考えることだから、仕事を離れたところでは、逆に理屈っぽいものは必要ない。むしろ欠けているのは情緒的なものだ。
頭を使うと甘いお菓子が欲しくなるようなもので、バランスをとるのに情緒の濃い音楽を聴きたくなるのだろう。
ところで僕の学生時代と大きく違うのは、今の医学部の学生は音楽を自ら演奏するのがうまいこと。ある意味で暇人が多いのであろう。
医学部といえば偏差値が高いということになっているが、なに入ってしまえば特別な能力はいらない。常識的判断ができれば医者は務まる。
常識というのは、この患者は自分の手に負えないと思えば、信頼できる他の人に任せることである。勉強ばかりしていると、こういった常識があやうくなる場合もある。音楽で頭をほぐしておくのも有効かと思う。
養老 孟司「波長が合う音楽に人は癒される」
SKYWARD 2月号
JALグループ機内誌
旅する脳