カミングアウト
男性同性愛者(ゲイ)の専門誌「薔薇族」創刊は、1971年。同じころ美輪明宏の自伝「紫の履歴書」も話題になった。だが、ゲイの人々に対する差別は厳然と存在していた。
「60年代後半は、俳優修業まっしぐら。あのころの自分にとって、ゲイだと公表するのは、ありえないこと。スキャンダル以外の何ものでもありせんでした」
俳優、青山吉良(56)。昨年公開さた映画「メゾン・ド・ヒミコ」、老人ホームで暮らす老いたゲイを好演した。彼が周囲の人々にゲイあることを公表(カミングアウト)したのは、40代になってからだ。それまでは、ゲイであることは絶対黙ってなきゃいけない秘密」だった。
「幼稚園のころ、いじめっ子に『シスターボーイ』とからかわれるのが嫌で、そのたびに向かっていった。でも、小学校高学年でゲイと自覚してからは、僕は他人と違う、ずっと孤独に生きなきゃいけないんだと、子ども心に思っていました」
千葉県松戸市で小さな洋服店を経営する一家に生まれた。幼いころから舞台にあこがれ、俳優を志し、桐朋学園短大演劇専攻科へ。早稲田小劇場を振り出しに舞台一筋に生きてきた。
芝居仲間にもゲイであるのをかたくなに隠していた青山が、カミングアウトしたきっかけは90年代の初め、東京・新宿二丁目のゲイバーで「すてきな酔っぱらい」に出会ったことだ。
「舞台人のためのプロダクションを任された時期で、本で知ったゲイバーに初めて行ったんです。でも、いい年をして、酒も飲めない自分が、そこにいるのが何か物欲しげで嫌になって……」。
そのとき、店内でベロベロに酔っていた男性が声を掛けてきた。「ここはね、本当は、いいことなんかめったに起きないんだけど、皆ひょっとすると、すてきな男に出会えるかも、と期待して来る。それは恥ずかしいことじゃないんだよ」
何でもない言葉のようだが、自分を否定し続けてきた青山には優しく響いた。「あっ、そうか、自分を肯定してもいいんだ。そんなメッセージに聞こえたんです。それから、僕のカミングアウトは始まりました」
東京・神宮前のポット出版。夜7時過ぎに雑誌「クィア・ジャパン・リターンズ」(QJr)の編集会議が始まった。
編集長は伏見憲明(42)。91年に「プライベート・ゲイ・ライフ」を著して以来、日本のゲイ・ムーブメントを先導してきた。小説「魔女の息子」で文芸賞を受賞するなど、多彩な才能を発揮する彼が、今もっとも情熱を注いでいる仕事だ。
「『薔薇族』はゲイの欲望を表現していたけれど、QJrは、ゲイのライフスタイルマガジンにしたいんです。つまり、それだけ数多く、ゲイというライフスタイルを選択した世代が育ってきた。彼らが今後何を選び、作っていくのか、それを一緒に走りながら"サポートしたいんです」
次号のテーマは、同性間での感染の割合が年々高まっているエイズ。ライターの田辺貴久(24)が「去年、友人がHIV(エイズウイルス)陽性と診断されて、人ごとではないと感じるようになった」と、企画案を切り出す。
「本業は東京都内のサラリーマン」の田辺は、会社ではゲイであることを隠しているが、両親や兄弟には数年前にカミングアウトした。「えーっそうだったの、と最初は驚いてたけれど、結構明るく受け止めてくれました」
亡くなった父親にはカミングアウトできなかったという伏見が、分析する。「こういう軽さは、僕らの世代にはなかった。団塊ジュニア世代以降の特徴ですね」。
伏見によると、団塊ジュニア(71年から74年生まれの第2次ベビーブーマー)は、今ゲイの世界で最も明るく元気な世代だという。
「団塊の世代は自らの欲望を肯定して、規範に対してノーと言った人たちですね。そういう世代を親に持つ子どもだから、自由になれるのかなあ」
日本ではゲイの人々の反差別運動は、90年代に本格化した。「団塊の世代が始めなかった唯一の運動、遅れてきた運動」(伏見)だ。
団塊世代の青山は言う。「僕は長い間独りで悩んできたけれど、そのことも含めて、ゲイであることは、人としての豊かさにつながっている気がする。もし自分がゲイでなかったら、他人にも自分自身にも、こんなに向き合ってこなかったと思うから。でも、いつか、カミングアウトという言葉もなくなる日がくればいい。(敬称略)
文・立花珠樹「カミングアウトに光」
「遅れてぎた運動」開花
2006年2月28日付け
高知新聞朝刊
夢見たものは今
団塊世代のアイコン
ゲイ