無意味なルールの意味
 
僕の名前は「孟司」と書いて「たけし」と読む。普通、なかなか読んでもらえない。母もそう思ったらしく、僕の戸籍には「タケシ」と振り仮名がつけられている。
「孟」は儒学者の孟子からいただいているのだが、なぜこの名前になったかというと、つけた父の中国好みのせいである。商社勤めだった父は、仕事で中国へよく行っていた。それに、あの時代の一人前の男は、ごく一般的な教養として、漢学に親しんでいたものだった。
もし弟が生まれていたら、孔子にちなんで「孔司(ひろし)」にするつもりだったらしい。中国式にいえば、僕の母は「孟母」ということになるが「孟母三遷の教え」のような教育ママには程遠かった。
開業医だつたから忙しく、勉強や学校のことをあれこれ言われた記憶はない。家は人の出入りが多くて、年中ざわついていた。三遷したかったのは僕のほうかもしれない。
母の代わりに教育係になったのは姉だった。近所の川でカニや魚捕りに夢中になっていたころ、無理やりピアノの前に座らされたことがある。たまたま隣のおばさんが音楽学校を出ていたので、姉は "才能教育" を思いついたらしい。
健げにも何度か辛抱したが、結局は逃げてしまった。こういう経験があるからか、いまや熱に連れ出すことがあるが、これも勝手に遊ばせているだけ。
子供は林や草っぱらを走り回って、本来もっている活力を十分に発揮し始めるのである。外で体を動かして生き生きするのは、実は体だけではない。
ある統計がある。3歳くらいの子供100人以上の生活時間と識宇率の関係を調べたら、外遊びの時間が長い子供ほど文字を知っているという結果が出た。
意外なようだが、脳の成長のしくみを考えれば、これはあたりまえ。体を動かすことが脳を育てるからである。
脳には、目、耳、手足など皮膚感覚を通して、外部からいろいろな情報が入ってくるが、逆に脳から出すことができるのは体の運動だけだ。しゃべるだけでも声帯や口を動かさなくてはならない。
動かしてみて、その感覚をまた脳にバックしていく。そうやって入出力をぐるぐる回していきながら、脳は育つ。
一見、無意味なような遊びのなかから、いろいろなことに出会って、自分なりのルールをつくっていくことは、生き物としての人間には大事。特殊な才能を育てるのはその先でいいと僕は思う。大人が思っているよりもずっと、子供は自然に近い生き物なのだ。
養老 孟司「無意味に思えるルールにも意味がある」
SKYWARD 1月号 2006年
JALグループ機内誌