功名が辻
NHK大河ドラマ『功名が辻』が始まったというので、司馬遼太郎氏の原作を読んでみた。登場人物は生き生きしているし、物語の運びも軽快だし、確かにおもしろい。しかし読み進めるうちに、むかむかしてきた。
歴史とは、勝者の書いたものだ。時代を遡るに従って、その傾向は強い。日本の歴史小説の主流は、その勝者礼賛の立脚地点に立ち、天皇、将軍、武将など史上有名な人物、英雄と呼ばれる人を取りあげて、いかに彼らが偉大であったかを記してきた。
この本もそのひとつだといえる。英雄たちの行う領土の奪いあいは是とされ、戦争における人殺しは美化される。『功名が辻』での戦いの描写などは、おもしろおかしく書かれている。
教育上問題ありとされるアニメの戦争シーンの先駆けだ。そこに表れているのは、強い、非凡な者が勝つ、弱い凡人は虫けらだ、ばたばた殺されてもいいというメッセージだ。
このような歴史小説を原作としたNHKの大河ドラマが、日本人の歴史観に果たした役割は大きい。私自身、子供の時から、日曜日の夜となると、家族揃って大河ドラマを見ていた。
おかげで今や本能寺の変の織田信長というと、ぱっと頭に浮かぶのは、俳優の高橋幸治氏が扇子を手にして、「人間五十年……」と唸りつつ舞っているさまである。
子供の時に見たテレビの映像が、まるで歴史の一部であるかのように、しっかり刷り込まれているのだ。
テレビで映される歴史ドラマは、戦後60年に亘って、日本人にひとつの歴史観を繰り返し巻き返し植え付けてきた。それは、勝者の歴史観、人を殺し、領土を奪い取ってきた侵略者の歴史だ。
こういうと、いや、歴史小説や大河ドラマに描かれているのは、日本人の道義心だ、誠実さだ、正義だ、という方もいるだろう。しかし、私のいっているのは、誰の立場に立った視点か、という根本的な姿勢である。
この歴史観に洗脳された日本人は、自分たちを勝者に同一視するようになった。武士を企業戦士の身に置き換え、高度成長時代の経済戦争を戦ってきた。
その結果、国民総生産は世界上位に食いこんだが、個人的には休みもほとんど取らずに働き、僅かな広さの自宅を持つにも大変で、「カローシ」などという世界通用語まで生み出す悲惨な暮らしを強いられている。
その状況は、戦国時代の庶民と大差はない。当時の民衆もまた、汗水流して働き、生きていくだけで精いっぱいだった。武士たちの国盗り合戦とはまったく関係のないところで暮らしていた。
戦乱のとばっちりを受けて、兵役や普請に駆りだされたり、田畑を荒らされたり、収穫物を徴収されたりすることが、せいぜいの関与のされ方だった。
現代人も似たようなものだ。どんなに大河ドラマに洗脳されて、勝者の気分になったとしても、多くの者にとっての現実は、やはり勝者の歴史には名前すら残らない圧倒的大多数の民衆なのである。
『功名が辻』では、一豊を貧乏侍として描くことによって、民衆と同じレベルに持ってきているが、どんなに取り繕っても、山内一豊は、土佐藩を与えられ、そこに君臨した殿さまである。
生活に汲々としている民衆から取りたてた年貢で財を得てきた侵略者だ。昨年、膨大な県費をかけて購入した『高野切本』もその財のひとつだった。
今度の『功名が辻』の放映に合わせて、「山内一豊とその妻」の特別巡回展が催されるが、高知県での開催には、県から補助金を出すだけでなく、NHK側に一千万円を超す「企画料」も払うことになっている。
さらには、あの『高野切本』も展覧会に無料貸し出しするとの記事を読んだ。なさけないな、と思う。大河ドラマによって高知が脚光を浴び、観光収益も見込まれるので、県民の多くは歓迎していることだろう。
しかし、侵略者に年貢を払いつづけてきた者たちの子孫が、今もまだ税金を通して、侵略者の人生を美化する事業に、ありがたや、ありがたや、と叩頭(こうとう)しつつ、お金を払いつづけている。私たちは、そこまでお人好しの阿呆でいいものだろうか。
坂東眞砂子「大河ドラマにだまされるな」
(作家)
2006年2月5日付け
高知新聞朝刊
視点
民衆は名前さえ残らず