身近な死のありがたさ
 
15年前、私は住み慣れた東京を離れ、岩手の農村で暮らし始めた。農家に嫁ぎ、地域の人々とかかわりながら子育て、仕事に明け暮れる中で、いつの間にか時が流れた。
この間、日本の社会や経済は大きく変化した。霞が関や六本木での出来事に耳目が集まる一方、地方農村も静かに変容してきた。
年々めぐる季節の美しさや、田畑を耕す人々の営みは変わらないが、やはり何かが少しずつ変わっている。変わらない農村、変わる農村。農村の「いま」を映しとる裏側に、この国の顔かたちが見えるような気が時々する。
変わらないものをひとつ挙げよと言われたら、お葬式をめぐる意識や慣習がまず思い浮かぶ。農村のお葬式の多さ、その手間ひまの膨大さは、高齢化のせいだけではない。
「火事と葬式だけは何をおいても駆けつけろ」という地域社会の鉄則が、今も脈々と生きているのである。
最初は、1週間も続くお葬式の手伝いに驚いた。何10人もの遠来の客や親類に食事の提供。掃除、雪かきなどの下働き。農繁期や寒さの厳しい時期に隣近所で葬式が何軒か続くと、誰もが疲労困憊(こんぱい)してしまう。
さすがに最近では、簡略化したり業者に任せる方式も増えてきた。確かに楽なのだが、どこか落ち着かない。
やはり、故人のにおいがしみ込んだ家の座敷に地域の人々がわいのわいの集まり、飲み食い、時には「最後まできかねエ婆(ば)サマだったナ」なんて悪口の一つも言いながら何とか一大行事を終え、やっと一人の人生を見送った気分になるのだ。昔ながらのやり方にも一理あるなと、最近思う。
つくづく実感するのは、農村では「死」がなんと身近にあるか、ということだ。岩手に来るまで、「死」は私にとって縁遠いものだった。
昨日まで生きて動いていた人が、今朝は白い顔で布団に横たわっている。正直、慣れないうちは怖い。それでも容赦なく「そこのアネサン、仏さんにご飯あげてきて」などと指示され、こわごわ置いて逃げ戻ってくる。
回数をこなすうちに「あら、今回の仏様のお顔はきれいだわ」なんて見入る余裕も出てきたりする。こればっかりは理屈ではない。場数を踏み、肌で知り、受け入れる「死」なのである。
幼い子どもたちにとっても「死」は身近だ。葬式が出れば親は数日家を空けっぱなしだから、手伝いについてくるしかない。仏様の枕元でお菓子をいただいたり遊んだり、時折そっとお顔に触れて「冷たい」と手を引っ込めたり。
何回目の手伝いの時だっただろう。忌明けの片づけを終えて座り込んだ私に、隣のおばあちゃんが熱いお茶をいれてくれた。
「疲れたべ ?」
「うん」
「順繰りだから、ナ。オレのときも頼むじえ」
「順繰り…」
そのとき私の脳裏に、ぽかっと一つの情景が浮かんだ。それは、自分が死んで仏様になり、その周りで地域の人々や子どもたちが集い、和やかに語り合っている光景だった。言い表しようのない、不思議な安堵(あんど)感が胸の中にじんわり広がった。
ああ、そうか。自分もいつか、こうして見送ってもらえるのか……。その日、私は「死」をめぐる儀礼やしきたりの意味をおぼろげにのみ込んだ。そして、「死」が身近にあることのありがたさを初めて思った。
なぜ、農村の人間だけが葬祭の労苦を引き受けるのかと理不尽に思ったこともある。通夜の日だけ郷里に戻り、終わればそそくさと帰っていく都会人をうらやんだこともある。
しかし「死」が遠すぎると、人はどこかバランスを失う。生老病死の〈順繰り〉を体温とともに実感できる農村の日常が、今では貴重に感じられる。
都会には何でもある。何でもあるが、あのとき私の感じた、かけがえのない安堵感だけは無い。それが、生と死に対する人々の不安や焦燥を生み、頭でっかちな若者が耐えがたい不安に押しつぶされてしまう遠因の一つになっているような気がする。
役重 真喜子「身近な死のありがたさ」
貴重な安堵感
やくしげ・まきこ
(花巻市教育委員会東和事務所長)
1967年茨城県生まれ。首都圏で育ち東大法学部卒。上級職として農水省に入省したが、牛を飼う夢を捨てられず、研修で暮らした岩手県東和町(現花巻市)の職員に転身。現在、同市教育委員会東和事務所長。田舎に来た経験をつづった著書「ヨメより先に牛(ベコ)がきた」はテレビドラマ化された。
2006年2月6日付け高知新聞朝刊
現論 GENRON
「時・ひと・言」