今日は日本仏教界において

(私の中で)最高峰に位置するのではないかと

考えられる空海と最澄についてです。

そもそも私は空海が拓いたお山である

高野山でヨガの修行をさせて頂いたんです。

ゆえに弘法大師(空海)とは縁深いです。

空海と最澄は同じ時代を生きています。

空海と最澄は遣唐使団として同じタイミングで

中国に行きました。

 

けれど2人の立場は全く異なり、

最澄は天皇からの推薦を受けて

自分用のお抱え通訳を連れて行っていました。

 

一方の空海は私度僧でした。

当時、僧侶になるには正式な国の認可が必要でしたが、

国の認可なく勝手に僧侶になることを私度僧と呼びました。

 

飢えや徴兵から逃れるために

私度僧になる人が多かったのですが

 

空海の場合は、大学にも入学しており

出自は全く悪くありませんでした。

 

けれど生来の魂の解脱への欲求が彼を飢えさせ続け、

最高峰の学びであるはずの大学の教えすらも

彼を満たす事はできず、

ある僧侶との出会いがきっかけで

彼は意図も容易く全てを投げ出し、

私度僧となるのです。

 

さて、遣唐使の話に戻ります。

当時の遣唐使制度は苛烈を極めるもので

一度、唐に渡ったら20年は帰れないのが普通でした。

けれど天皇直々の推薦である

最澄だけは皆とは別格。

他のそれとは対応が全く異なりました。

 

同じ遣唐使団として遣わされた

空海と最澄ですが、

その扱いは天と地ほどに違ったのです。

 

と、こ、ろ、が。

 

この唐の地にて、

最澄を差し置いて

空海が最高の教えを受けるのです。

 

この要因は2つ。

 

1つは最澄の滞在期間の短さ。

彼は朝廷の命を受けて半年から1年で帰らねばなりませんでした。

 

もう1つは言語。

諸説ありますが、最澄のための通訳が深い部分を通訳することができずに、最澄は問答に参加することができなかったという説があります。

 

さらにもう一つの説としては空海が中国人と同等の中国語を操っていたという説です。

空海は中国でも奥義中の奥義とされる特別な行の伝承者となりました。その前提に中国語を介すという概念があっても当然のことです。

 

なぜ空海が中国語を母国語のように操れたか?という疑問を解明するのに一つの説があります。

それは、日本にいる時に行った虚空蔵求聞持法(こくうぞうもんじほう)のご加護。

 

虚空蔵求聞持法は凄まじい荒業なのですが、成就させることで宇宙の真理を吸収できるほどの、常人を超えた記憶力を得ると言われています。

その行を成就させた空海にとっては中国語は朝飯前だったのではないでしょうか。

 

そもそも、最澄は天台宗の発展のために中国に渡りましたが、空海は手ぶらでした。

 

そして2人が渡った唐では密教が開花していました。

 

天台宗とは関係なく感じる密教でしたが、

最澄も必要を感じて学びました。

けれど最長には時間が足りなかったので、

上澄を掬い取るに留まり、帰京しました。

 

その後、

空海は密教の最奥義まで到達します。

中国にいる何百人という弟子を差し置いて

最奥義は空海に委ねられます。

 

その後、

空海は20年は日本に帰れないはずなのに、

わずか2年ほどで日本に帰京を果たすのです。

 

これも不思議なこと!

 

その後、最澄は空海に弟子入りします。

 

最澄は国が認めた高僧で

空海は未だ何者でもないにも関わらず

 

最澄という

「最も澄む」という名を持つこの方は

空海という

「空と海」を操る自由な御仁と

その後の学びを共にします。

 

最澄は自分が成し得ることができなかった

密教の教えを空海から受けるのです。

 

2人の文章は今も現存されており

2人がどれだけお互いに心を許していたかを

鑑みることができます。

 

後に宗教観の違いで二人は行く道を分けてしまうのですが

それはまた別の話。

 

今日はここまで♡

 

最後まで読んでくださってありがとう御座いました^ ^

あいとひかりをこめて

長谷川陽子

 

「ゼロから次元上昇!光の道に乗る神秘入門講座」