しかし、私の場合はタイ人に嫁いでおり、タイでは家に僧侶を呼んでの宗教行事が頻繁に行われます。
今日も親戚の家で大きな儀式があり、明け方から一族総出で準備して、お坊さんをお迎えしました。
そしてチャンティング。
このひと時が他のことを気にせずに瞑想が出来るなんとも贅沢な時間なのです。
(まだ目が離せない幼児がいる母の生活は何かとバタバタするもので、ゆっくり落ち着いて瞑想する時間を取るのがなかなか難しかったりします。)
ところで
瞑想している時に集中しようとしてもなかなか出来ない時があるかと思います。
これは慣れですから、繰り返していれば比較的簡単に集中出来る様になるものです。
今日は瞑想の集中について、1つ面白い気づきがあったのでご紹介したいと思います^ ^
先ほどお話ししましたタイの宗教行事では、女は飯炊きに大忙しです。
何十人ものためのご馳走を用意して、祭壇にお供えして、子供に食べさせてとバッタバタ。
それで汗ダクダクの状態で突然チャンティングの場に飛び込むことになります。
瞑想のために心静かにするなんて出来るわけありません。
それでこんなことがありました。
ご馳走の準備がおおむね整って、お坊さんが来るまでに少し時間があったので
「今しか食べる時間ないから急いで食べちゃいなさい」
と親戚に急かされました。
「通常、儀式は空腹で行うもの」という概念が私にはあったので、ご飯を先に食べることに抵抗があったのですが、嫁に選ぶ権利はなく。笑
(いや、嫌なら断ればいいだけなんだけどね。)
言われるままに急いでご飯をかっこんでいたら、お坊さんが予定より早くお着きになって、すぐに儀式が始まりました。
その時、歯と歯の間に食べ物が挟まっていることに気づいたのです。
舌先で歯と歯の間の物を取ろうとしたのですが、そんなに簡単には取れず。
今気にしても仕方ないから忘れることにしたのですが、気づくと無意識に舌先が歯と歯の間を触れているのです。
瞑想の導入はそのように始まりました。
けれど瞑想が深まってくると
瞑想という状態だけが自分の中を占め始めるので
自然に舌先もあるべき位置に収まり、歯と歯の間の侵入者のことも忘却の彼方に消えて無くなっていました。
自己の行として瞑想をしている時は、条件を整えて瞑想を行いますので、何かを気にしながら瞑想をするということが少なく。
これは面白い経験だと思いました。
目を開けてる時は物質次元が強いのですが、
瞑想を知っている人は、目を閉じて瞑想の状態に入ろうとすれば、すぐに物質次元が下がって霊的次元が前に出てくるのです。
つまりは自己の瞑想の置き所を知ること。
瞑想に入った時にどの状態になるべきかを知っていれば自ずとそこに導かれていきますから、
瞑想をしていてフラフラと定まらない人は、まずはそこを目指すと良いという話でした。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
愛と光をこめて✨
長谷川陽子