肉体は感覚を有します。

人生は感覚と共にあります。

五感を通して人生があるので、私たちはそれが人生と考えがちです。

けれど五感を通して、喜びや苦しみや楽しみを傍受するのだけが人生であるならば、

それってそんなに素晴らしいものとは思えません。

五感の感覚はその瞬間だけのもの。

飲み会行ったら楽しいけれど、饒舌になって言わなくていいこと言って人のこと傷つけたりして、後に残るのは胃のむかつきと調子に乗った後悔だったり。

腹が減れば美味しい食べ物が食べたいと思い、

満腹になればもう食べたくないと思い、

けれどまた腹が減ればまた美味しい食べ物が食べたいと思いはじめる。

素敵な服が欲しいと思って買って満足したのもつかの間、また新しい服が欲しいと思いはじめる。

高嶺の花の彼女を見事獲得したとしても、時間が経てばもっと他に素敵な人がいるんじゃないかと思いはじめる。

これら感覚の喜びだけを追い求めることが、本当に人間の幸せなのでしょうか。

「五感を喜ばせることだけが人生ではないのではないか?」

「地位や名誉を得ることだけが人生の勝利ではないのではないか?」

それでは人の人生はなんのためにあるのか?

それは意識レベルの向上。

肉体は滅びるけれど、魂は永遠であるならば、

魂の成長こそが我々が真に求めるべきものではないのでしょうか。

人生は魂の修行の場なのです。

私たちは輪廻転生を繰り返し、

生と死の狭間を行ったり来たりして、

肉体を越えて

魂を高みに登らせていくのです。

そこに気付き始めたら、それが覚醒。

そこから第2の人生が始まります。

けれど、五感が邪魔する。

今までは人生の喜びを感じさせてくれる素晴らしい感覚器であった五感が、今度は手枷足枷となり、私たちを物質次元に縛り付けるのです。

人生はあっという間。

五感の喜びを感じ切りたいなら、それも人生です。

仏陀の元に、修行したいという男がやってきました。

仏陀はその男を一瞥して、

「あなたはまだまだ遊びたいと思ってるのですよね。それを無理やり押さえつけて修行しても、成就出来ませんよ。遊ぶだけ遊んで、もう充分となってからまた来なさい。」と、帰したという話があります。

修行が進むと、怒り出す人とか、ものすごくネガティヴになる人とかいます。

自分の掘り下げが進むと、見たくない自分と向き合い続けるので、手放せない感情と対峙して、感情の吐露がはじまり、そのようなことになったりします。

そういう時は、一度離れる。

無理にしがみついてると、中途半端にしか成りませんから、

諦めて手放して、本当に本当に自分に必要なのか見詰めて見詰めて、どーしても必要となったら再度はじめればいいのです。

もしくは死ぬ気でやるのみ。

結局、なるようにしかならないものです。

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最後まで読んでくださってありがとうございました。

愛と光をこめて✨

長谷川陽子