ベジタリアンか否か。

これについてはずっと考え続けています。

が、現在の私の考えを述べたいと思います。

まず、私は10年前にヨガのティーチャーズトレーニングを受けてベジタリアンになりました。

それまでの私は肉大好き人間でした。

が、ティーチャーズトレーニング中は毎日質素な精進料理を食べ続け、

さらにティーチャーズトレーニング中に毎日毎日、肉を食べることに対する罪を諭され続けて、次第に肉食に対する罪悪感が芽生えていき、

ティーチャーズトレーニングが終わる頃には

すっかり毒気も抜けてベジタリアンとして生きる道を選んでいました。

ヨガの行者はベジタリアンなのが当たり前ですから、矛盾を感じ続けて肉を食べるよりも、ベジタリアンとして生きた方がヨガを行ずる上で楽でした。

ところで何故ヨガを行ずるのにはベジタリアンであると良いのか?

これには2つの理由が挙げられます。

1. 消化・吸収に体力を奪われるから。
・人間の胃酸は、草食動物と同様で肉食動物の胃酸の20分の1。
・人間は草食動物と同様に長い腸を持つので、短い腸を持つ肉食動物より、肉が腸内で腐敗しやすく、悪玉菌が生まれやすい。

2. 動物が持つ性質のアグレッシブさが移り、怒りやすくどう猛になるから。

3. 食肉として殺された動物は死の恐怖に対するネガティヴを持ち、食べることでそれを取り込んでしまうから。

4.アヒムサ(非暴力)。
生きとし生けるものを愛しなさいという教えから。

…言葉にするとこんな理由です。

ヨガのティーチャーズトレーニングまでは当たり前に肉食でしたが、その後ベジタリアンになり、矛盾を抱え続けて肉を食べるよりも、むしろベジタリアンでいる方がスッキリいられました。

ヨガを教えながら肉を食べることへの後ろめたさを感じずに生きられるので、とても前向きになれました。

そしてベジタリアンになるからには、ちゃんと知識を持って正しく食事ができるようにと

マクロビオティックの教室に通い始め、

そこで「いわゆる意識の高い友人」がたくさん出来ました。

ところでニューヨークでは、

ベジタリアンレストランも沢山あって、ベジタリアン文化が根付いていました。

エグゼクティブクラスにもベジタリアンは沢山いるので、ベジタリアンにも市民権はありましたし、なんなら最先端行ってるような感覚さえありました。

けれど当時の日本では、

ベジタリアンはまだあまり理解されず。

友達からも偏食だと説教されたりするし、

なんでベジタリアンなのか?と聞かれた時に「アヒムサ(非暴力)」を持ち出したりして、それすると肉食べてることを非難することになってしまうので、相手に悪感情を持たせてしまいます。

それで肉食の友達と付き合うのが難しくなっていき、ベジタリアンの友達としか付き合わなくなりました。

ヨガの賢者の教えに「悪い友達とは縁を切りなさい」というものがあるので、都合よくそれを当てはめて、長く付き合ってきていつも助けてくれた友達とも疎遠になっていきました。

自然にベジとノンベジが共存できれば良いのですが、ベジタリアンってなんか運動っぽくなっていってしまうんです。

「私たちは肉食べません!!」みたいな。

マクロビのお教室で仲良くなったお母さんが子供を公立の小学校に入れてて、

給食が出るのに食べさせられないからって1人だけお弁当を持たせていたそうなんです。

それ聞いて複雑な気持ちになりました。

日本の子供ってみんなと違うだけでいじめの対象になったりするのに、

それやって子供いじめられないの?

子供にそれさせるからには、親も家庭で給食に否定的な発言を子供に吹き込むわけですから、頭でっかちな子供にならないの?

って思ってたら案の定、学校にいられなくなって

同じような思想を持つ親たちが集まる自然志向の学校に子供を転校させるために、田舎に引っ越していきました。

ヨガの先生でフィッシュマーケットを歩いていて、バケツの中に入れられた沢山の魚たちをみて泣き出したという人がいます。

動物を愛する心は素晴らしいのですが、魚屋さんに罪悪感を持たせる運動のようで違和感を感じました。

清廉潔白であることは素晴らしいことですが、それが出来ない人を糾弾する姿勢を取った途端にエゴって生じないか?

全ての生きとし生けるものとの調和を目指すのに、肉食べてる人たちとは調和しないのか?

心を平和にするためにベジタリアンになりたいのに、ベジタリアンになることで摩擦が生じるって不思議な世の中です。

それで師匠である塚本先生に相談した時に「修行中の身なので」と言いなさいと教えていただきました。

これが一番しっくり来ました。

先生曰く「必ずしもベジタリアンである必要はないが、ベジタリアンである時期を作ることが良い」とおっしゃっていて、

見てみないと分からないなら見てみれば?

ということと捉えました。

ベジタリアンにならない理由ではなくて、ベジタリアンである理由が欲しかったので、この考えは私を助けてくれました。

ベジタリアンという概念について

それを良しとするかどうか。

思想家のベジタリアンの人々は全ての人がベジタリアンであるべきとして発言するので、

ノンベジタリアンを攻撃することにつながります。

修行をして自分のエネルギーをクリアにしたい人は別として、

絶対菜食主義は栄養失調からの疾患が多数報告されてもいますから

肉体レベルの健康で見た時に、

個人の置かれている環境によって肉を摂取する必要がある人を私は否定しません。

ベジタリアンになるかどうかは本人の思想なので、選択肢は与えてもいいですが、最終的に選ぶのは自分で、それについて否定も肯定もする必要はないのではないかと思います。

因みに現在私は肉食です。

これにはいろんな理由があります。

大きな理由は子供を育てているから。

絶対菜食主義(ビーガン)でホットヨガを一日3本こなす事は出来たけれど、子育ては私には無理です^^;

ベジタリアンでいると自分の内側は統制取れて心乱されずに穏やかにいきられますが、突発的なハプニングに弱いです。

子供が突然風邪ひいて家族中に病が蔓延しても私は元気でいないといけないので、常に余剰体力が必要です。

ベジタリアンの時はギリギリで生きていました。

なんならいつ死んでもいいと思って生きていましたが、今は死ねません。

肉食べてでも馬力が必要です。

自分の修行より、目の前の子供を育てることの方が大切ですし、それこそが何よりの生きた修行です。

形にこだわるより、実をなす方が大切ですから、現在はそのように育てています。

けれど勘違いしないで欲しいのは、肉食擁護をしているわけでも、菜食批判をしているわけでもありません。

私は何年も菜食主義を実践して、自分なりに行き着いた結論でしかないので、私の言うことを自分の意見として取り入れるよりも、迷っているのならば自分で試して感じてみてくださいと言っておきます。

私自身、エネルギーのことを考えると菜食主義の方が間違いなく研ぎ澄まされますから、子供が大きくなったらまた菜食主義に戻りたいとも思っています。


最後まで読んでくださってありがとうございました。

愛と光をこめて✨

長谷川陽子