生徒さんから
「ヨガの先生を先生と呼ぶ人とさん付けで呼ぶ人がいますが、先生からしたらどんな気持ちですか?特に気にしませんか?」
という質問をいただきました^ ^
ちょっと面白かったので、このことについて書いてみようと思います。
例えばなんですけど、
これは一般の生徒さんの話ではありませんが、
ティーチャートレーニングやインストラクター向け研修などで、ビギナーのインストラクター達に向けて講習をすることがあります。
そういう時に知り合ったインストラクターさんは、私のことを「先生」と呼びます。
そのまま何年も「先生」呼び続ける方もいれば、どこかのタイミングで「さん」付けに変わってる方もいらして。
こちらとしては正直どっちでもいいことなのですが、相手への呼び方を変えるということは、アクションを起こす側にとってなんらかの心境の変化が生じますよね。
(例えば付き合いたての彼をそれまでは名字で呼んでいたけれど、下の名前に呼び変えるとか勇気いったり、こそばゆかったりするじゃないですか^ ^)
私の場合、
そういう方に会うと、本人の中でどんな心境の変化があったのかに意識が向きます。
例えば考えられるのは
①
周りのインストラクターが私を「さん」付けで呼んでいたから、自分もそれに合わせた。
②
インストラクターとして年数を重ねて、私から指導を受ける立場から、同じ仕事をする立場へ変わったという気持ちと共に、呼称も変化。
③
久しぶりに会って、以前なんて呼んでたか忘れた。
④
私に何か嫌なことをされた故に反発心が生まれ、「あなたは私の先生ではありません」という意思のあらわれ。
④のように明らかな反発心がある人との遭遇は今の所、記憶にないです。
(どんなことがありうるか頭の中からひねり出したら出てきただけで、私に対する呼称を変えた人が全て④の可能性を秘めているとは全く思っていませんのでご了承ください^ ^)
③の人が一番自然体と言えば自然体なわけですが、やはり呼称を変える人の心理は少なからず動きがあるわけですから、その人の真意について考えると面白いです。
・・・
そもそも名前はただの固有名詞に過ぎず、
(言靈的には重大な意味を持ちますが)
呼び名がなければ相手を特定しにくいので
便宜上名称が必要というくらいにすぎないとも言えます。
そのくらいの感覚で捉えていれば、「先生」でも「さん」でも呼び手が呼びやすいように呼んでくださいくらいの感じにこちらはなります^ ^
例えば
私の師の1人でニューヨークにてヨガを教えているダーマ先生は、「Sriダーマ」 とか 「teacher ダーマ」 とか 「master ダーマ」とか呼ばれずに、生徒さんから普通に「ダーマ」と呼ばれています。
イギリスに留学しているときの演劇学校の先生たちもみんな呼び捨てされてましたし、
国が違えば文化も変わる。
呼称への概念も変わってきます。
それも1つの捉え方ではありますが、
やはり「先生」と呼ばれることに対して当たり前に受け入れてるわけじゃなくて、
「私のようなものが、なんかすいませんね〜。」
とか
「いやいや先生なんて偉い立場じゃございませんよ。私も皆さんと同じ学び続ける立場です。」
という気持ちも持っているということもお伝えしておきます。
時として、私より一回りも年配の方から「先生」と呼ばれることもあり、人生の大先輩にそんな風に呼んでいただいて大変恐縮している自分もいます。
そしてそのように呼ばれると身が引き締まる気持ちも出てきます。
先生とは「師」と呼ばれたりもします。
先生とは
先に生きる者。
先じて道を示す者です。
私の師たちも私に「先生」と呼ばれることを拒まずに、私も師を「先生」と呼ばせてもらい続けてきました。
それがどれだけ心の支えになったことでしょう。
先生と呼ばれない方が責任も生じないし、気楽とも言えますが、私の先生たちは私の先生でい続けてくださいました。
自分を下げて(生徒さんに先生と呼ばせないことで)奢らない姿勢を作るということもありですが、
誰かに「先生」と呼んでいただけるからには
誠心誠意こめて精一杯自分の仕事に努めたいと思います。
「先生」と呼ばれるたびに
自分の魂の仕事に従事しようと
何度も決意新たにするきっかけともなるのでした。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
✨愛と光をこめて✨✨✨✨✨
長谷川陽子