前回の続きです。
タイは王様の喪中なので、外出時は黒い服を着ています。
これを機に「喪に服す」という行為について考えてみたいと思います。
黒い服は炎天下では熱を集めるので、驚くほど熱いし、黒い服ばかり着ていると気分転換に違う色の服を着たくもなります。
が、「喪に服す」って、そういうことではないのです。
気分転換=自分の都合で作法を変える
ってことですよね。
そのように作法を変えることは「気持ちの上では喪に服しているからいい」と敷居を下げてしまうような行為です。
例えば王様が亡くなった後の数日間はタイ国内は、水を打ったような静けさでした。
それが日が経つにつれ、派手なパーティは控えられているものの、皆普通の生活に戻り、普通に笑いあっています。
全員が活動を停止したら景気が悪くなり、タイ経済に影響が出てきますので、喪に服していても粛々と通常の生活をしないといけませんし、
健康面から考えたら鬱々としていると、心の病気になりかねませんから、悲しみから早く立ち直る方がいいのですが、
「喪に服す」というのはそういう、「一般的な心と身体の話」とは切り離されたところにあります。
・・・
人間は死ねば肉体がなくなります。
故人は肉体を手放し、霊体(エネルギー体)となります。
死の直後の死者は人間界と霊界の間にいるような状態です。
死者によっては自分が死んだことを認識していない霊体もあるくらいです。
肉体は手放したけれど、エネルギー体としては未だ生者に色濃く影響を与えられる、完全に肉体・物質世界との繋がりが切れる前の、「生者に未だ関与している状態」。。。
それが生者側の立場で行う「喪に服す」期間です。
また生者の死は「穢れ」と表現され、喪中は穢れを清めるための期間という風にも見られます。
死後の魂の抜けた肉体は腐敗が始まりますから、バクテリアが増えたりして、疫病が流行り、更に死者が増える…という観点から死を穢れと言いますが、近しい人が死んだことを穢れと表現されることに違和感を感じる人もいるかもしれません。
(宗教によっては穢れという概念がなく喪中もない。)
穢れとは陰陽で言えば陰です。
例えば出産なども陰陽で見れば陰です。
生と死が両方とも陰なのです。
(厳密に言うと、陰陽は条件が変わったり比較対象が異なれば変化します。例えば三次元から見たら「出産という行為」は陰で「子供の誕生」は陽。)
子供の出産の際、親は赤ん坊が無事に命損なうことなく生まれるか心の片隅に心配を抱えつつ出産に臨みます。
(江戸時代の生後一年までの死亡率は20〜25%。出産時や出産後に死んでしまう女性も多数。)
生死の境というのは陽性の強い生者の世界に比べて陰性ですので、生死は陰と捉えられます。
また、出産時は大量の血が出ますから、血は穢れとされるため、出産時に旦那さんはおろか男性の医者も立ち会わず、隔離された状態で出産が行われていました。
陰は月 陽は太陽
陰は陰 陽は光
陰は女性 陽は男性
陰陽は、この物質世界においてどちらも欠けることなく必要なものですが、
物質世界では全てが相対的に現れるため、上下や善し悪しも付随されてくるために、
陰陽二つを見た時も、
陰の方が陽よりも下等なもので、悪いものと勘違いされがちです。
が、そもそもは相対的なあらわれに過ぎず、
磁石のN極とS極のような相対的に存在するのが役割であるに過ぎないということに気づきます。
ですから、生と死は対として存在しており、物質次元において、影無くして光が存在しないように、死なくして生も存在しえないという話なわけです。
が、しかし。
ここまでは全体像の話ですが、
三次元に身を置く我々にとっては、善し悪しは存在し、
肉体のある我々にとって、死は忌むべきものです。
ですから死者が出て、霊界と人間界が近くなっている状態の時は、魔がさしたりしやすいというか、後を追って霊界に引き寄せられてしまう人も出て来やすいので、注意が必要なのです。
生と死の話は沢山の側面があるので、
奥が深いですね^ ^
人間として肉体を持つ以上、肉体の死は訪れます。
死があるからこそ、一生懸命生きられるのです。
(終わりがなければダラダラしちゃうけど、仮に明日死ぬと知ったらやり残したことやり切ろうとしますよね)
今生でどこまで行けるかは自分次第。
なるべく高い次元まで上がっていきましょうね^ ^
最後まで読んでくださってありがとうございました。
愛と光をこめて✨
長谷川陽子