ところで、サンオブゴッドがそもそも日本では上映されてるのかどうか調べようとしたら、こんな記事が。


「イケメンすぎる聖者に世界が騒然!」

笑いました。

フォーカスするとこ、そこ⁈ 笑

そう言われてみれば、他の映画などのイエス様よりイケメンだなとは思ったけど、イケメン俳優が抜擢されていたのか(笑)
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でも確かに十字架に磔になる前のシーンで裸体がさらされると、「小麦粉こねて焼いたものしか食べてないのに少し脂肪がついてるな。オーディションの時にボディチェックはなかったのだろうか。それともこれは許容範囲なのだろうか。」と、どうでもいいこと考えてました^^;

ところでこの映画では、イエスが人々に数々の奇跡を見せるシーンが含まれています。

水の上を歩いたり、死者を蘇らせたり、自らの死からの復活がそれですが。

水の上を歩いている人間を描写するのって難しいんだな〜と思いました。

人はありえないことを目の当たりにすると、自分を疑ってしまうというか、わたしの場合は何故か失笑してしまいました。

このシーンは弟子たちの前で水の上を歩いてみせます。

「信仰が全てを実現させる」

こういうことが言いたいわけです。

そして一番弟子のペテロも信仰心を持って水の上を歩き始めますが、一瞬疑いがもたげてしまうのです。

人間が水の上を歩けるわけない。
自分にできるわけない。
そして神への信仰の揺らぎ。

その瞬間、水の中へドボン。

そんなペテロにイエスは言います。

「何故疑う?信じなさい。」って。

神を信じなさい。
自分を信じなさい。
神の力を信じなさい。
自分の力を信じなさい。

弟子たちはこうして、イエスと時を共にし続けて、神の子から少しずつ少しずつ、神の子からしたら信じられないくらいのスローペースで智慧を学んでいくわけです。

この水の上を歩く話は有名な話ですが、映像になると突然陳腐になるというか、なんだか真っ直ぐ観ることが出来ませんでした。

それは映画だから?

いいえ。そうではなくて。

それは私の心がそうさせてるんだと思いました。

今例えば目の前にイエス・キリストがいて、わたしの前で水の上を歩いて見せてくれたとして。

多分同じ気持ちになるのではないでしょうか。

「ト、トリックはなんだ⁈」みたいな。

つまり私もペテロと同じ。

水の中にドボンです^^;

頭では「進行している」「熱望している」と言っていても、こういうところに現れるわけです。

だから、いつも意識をそちらに向けていないといけないのではないでしょうか。

油断してるとすぐに物質次元の都合に引きずられるのが人間。

神を見たかったら

真に神を見たかったら

気分が向いた時だけではなくて、

己を捧げる気持ちで

常に神様に意識を向け続けないといけません。

どれくらいやってるか

それは人が評価することではなくて、

全てはあなたの中で起こります。

ところで、偉そうにこんなこと書いてますが

私も皆さんと同じ。

水に落ちない自分目指して精進中です^ ^

最後まで読んでくださってありがとうございました。

私たちに道を示してくれる神様に

偉大な先人たちに

敬意をひょうしながら

みなさんに愛と光をハートから送ります✨

長谷川陽子