十数年ぶりに映画のパッションを観ました。

賛否両論の内容ではありますが、

製作者は製作者なりに情報かき集めて真摯な気持ちで作っているのは伝わりますので、

キリスト教の人には色々言いたいこともあるかもしれませんが、

それを怖れずに感想書きますと。

本や口伝は想像力を豊かにさせてくれますが、

映像は観ることでヴィジョンとして情報が入ってくるので散りばめられた情報を拾うのに役立つなと思いました。
 
そこでまず気になっていることを1つ挙げますと。  

キリスト教の新訳聖書は、マタイ、マルコ
ルカ、ヨハネの4つの福音書を含んでいます。

福音書は、4人の人間が描くイエス像というか、伝記なわけですが。

映画のゴルゴダの丘では、母マリアとマグダラのマリアとヨハネのみがゴルゴダの丘に駆けつけました。

そして最後の言葉が発せられたのです。

けれど各福音書を見ると、それぞれにこのシーンの描写があります。

各福音書は、同じ場面を違う人か書くので、違う話のように感じることがしばしばで、それについて色々な議論が交わされていて大変興味深いところです。

が…。

ん?つまり口伝を聞いて書いた福音書もあるということ?

マタイとヨハネは、キリストの選んだ12使徒だったようです。

マタイ福音書にもキリストが「神よ、どうして私を見捨てたのですか?」と書かれていますが、

マタイはその場に立ち会ったのか、否か…?

また、「マルコは直接の弟子ではないものの、最後のイエスの受難を目撃していた弟子。」という記述があり、そうなると映画の描写は史実よりも、映像の衝撃度を強調することに意識が向いているのか?という感覚ももたげてきます。(もしくは全く別の視点)

更にルカなる人物はパウロの共に働く医者で、目撃者の3人から直接話を聞いて書いた…という話があります。

イエスの言葉に  

「全ての事象は2人か3人の口によって確かめられる」(マタイ福音書)という言葉があり、

つまり、このゴルゴダの秘跡に関する一連の話もこのウチの複数人によって目撃されているということがわかります。

と、いうわけで映画の描写1つ見るだけで、難解で読みにくい気がする聖書へのとっかかりが出来るのでした(そんなオチ? 笑)

因みにスピリチュアル的には「ヨハネ福音書だけ読めば分かる」なんていう話もあります。

更にシュタイナーはルカ福音書を重要視しています。

しかし、感覚で掴み取れればいいんだけれど、わかりっこない史実がやたら気になってしまう私のような人は、時間がかかろうとも、やはり全部ちゃんとさらってみるのも乙なのではないでしょうか。

時間かかるけどね。

そんなわけで、ゆっくり歩を進めているような状態です。

更に付け加えると、

先ほどのキリストの最後の言葉についてや、

4福音書の違いについての

私の見解説明が端折られているので、

曖昧な感じになっていて、すいません^^;

見解だけ書いて理解するのは大変わかりにくいと思うので、そうなると4つの福音書についてそれぞれ書く必要が出てくるので、

風呂敷広げたら片付け大変になりそうなので。。。

そのうち意を決してか思いつきでちょいちょい書くかします^ ^

ということで、久々の映画鑑賞。

私的に十二分に楽しめた時間なのでした^ ^

(ってか、その後考えてたらこんな時間 笑)

そしてキリスト教の方、これを読んで不愉快な気持ちにならないよう配慮したつもりですが、もし不適切な表現がありましたら、ご容赦ください。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

愛と光をこめて✨

長谷川陽子