「意識レベル」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
これは長谷川魔法学校で学んでいただく大変大切なことですが、端的に言うと、
意識レベルが我々の高次元化を左右します。
意識レベルは個々の人間の次元を表すものとも言えます。
例えばキリストや仏陀の意識レベルが1000とすると、現代人の意識レベルは200そこそことされています。
これは個々の人間で異なりますので、これよりも格段に高い人もいれば、格段に低い人もいます。
意識レベルが低い人はどう頑張っても高次元には上がれませんから、自分の意識レベルを上げていく必要があり、
自分で意識レベルの引き上げは難しいので、意識レベルの高い人について引き上げてもらうことが何より肝要です。
意識レベルの数値は物質次元では数字で表さないとどれほどのものかわかりづらいので 数字にしているだけで、数字にとらわれて凄い凄くないと評価するものではないと知るのが前提です。
( インドの神様の神話なども同じようなことで、神様がどれだけ凄いかを説明するために神話は神様の偉業の話にかなりの行数割いていますが、そこに意味があるのではないと知らないとインド神話も理解不能な迷路に迷い込みます。)
時々、意識レベル鑑定などがありますが、自分の意識レベルを測って高かったと喜ぶ人がいたとしたら、それは前世がさる高貴な身分だったといって喜んでいるくらい、物質次元レベルではどうでもいいことで、大切なことは数字ではなくて生き方であり、向かっていく方向です。
( 自分の意識レベルを認識する助けにはなるとしても、それだけのことであって、一喜一憂するのは違うという話。)
意識レベルは徳の高さにも現れます。
徳が高い生き方をしている人は自ずと意識レベルも高いです。
徳が高い人が周りにいないと、徳の高い人の考え方や生き方というのは想像もつきませんから、自分の徳も上げようがありませんので、普段から付き合う人は大切です。
しかしいくら徳の高い人達が自分の周りにいても、自分と彼らの次元があまりにも違いすぎると、共感がありませんし、理解不能なことばかりですから、苦しくて一緒にはいられず、その結果、自然に距離を取り始めます。
意識レベルの距離が人との距離も作るわけです。( 類は友を呼ぶと言いますがこれぞまさしくですね )
例えば泥棒には泥棒の哲学があり、彼らなりの理由があって、泥棒をやっていますから、 ( 楽しいとか、お金に困ってるとか、理由はそれぞれなれど ) 泥棒は泥棒同士共感しあいます。
そういう人たちの集まりに、一人でも正義の塊のような人がいたらお互い心かき乱されて居心地が悪くなるのが普通です。
このように、意識レベルにあまりにも違いがあると居心地の悪さを感じるわけです。
しかし、人は自分のことを正当化しないと生きてはいけません。
魂 ( 指導霊やハイヤーセルフとも言える ) は自己を成長させようとして、意識レベルの高い人に出逢わせますが、自分の成長に目が向いていない時、または相手の言っていることが理解不能すぎて受け入れられない時、
人は自分を正当化するために、相手を非難します。
ですから自己を成長させる鍵は、
①「意識レベルを上げたいと思ったら、徳の高い人を見つけてその人の生き方を見習う。そういう人の指導を受けるなら、石に齧りついてもでもついていく。」
②「納得出来るところだけかい摘もうとするのではなくて、今の自分には理解できないこともあるということを受け入れる。」
①については上記で述べた通りですが、
②については、例えば誰かから意識レベル引き上げのために指導を受けたとして、半信半疑でついて行ったり、受け入れるところと受け入れないところを自己都合で作るというような姿勢があってはならないということです。
私たちはこの世の全てを自分のものさしで測ろうとしますが、これがすでに間違いなのです。
私たち物質次元の人間が自分の脳で理解して知覚していることなど、ほんの僅かにすぎないのに、自分のものさしで世界や人を判断して、それがいつも正しいと思うなど奢った考えだと知らないといけません。
私たちは本当の意味では何も知りません。
知れないのです。
これはモチロン物質次元においてはですが。
ですから、自分より「意識レベルが高いらしい」人がいたとして、「徳が高いっぽい」人がいたとして、
その人の私生活や言動や出来事をあげつらねて、自分より偉いかどうか、尊敬できるかどうかを判断基準にして、要所要所をかいつまむような所作をしているうちは、本質からズレていき、自分の霊性の向上には繋がらず、当然意識レベル向上の助けにもならないと気づかないといけません。
ところで、今「意識レベルが高いらしい人」「徳が高いっぽい人」という表現を使いましたが、「らしい」「っぽい」というのはどこから来るのでしょうか?
誰かの噂でしょうか?
それともなんとなく感じること?
誰かについて指導を受ける場合、こんな曖昧な動機は取り払わないといけません。
霊性の向上は魂を向上させるための真剣な取り組みです。
誰かの噂や、なんとなくで行うものではなく、自分の心に聴かないといけません。
最後は自分。
人のせいにはできません。
あなたがあなたのハートに従って、
魂から
本当にやるべきことのために行ってください。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
愛と光をこめて
長谷川陽子