先日、アカデミー賞の「ハートロッカー」を観ていた時のこと。
物語の冒頭で爆弾処理を終えた仲間が突然爆弾で吹っ飛ばされる衝撃シーンがあります。
目の前にいた人が突然爆弾で吹っ飛ぶ。
平凡な日常を非日常に転換させる、緩和していた空気を一気に緊張させる、いわば映画の「つかみ」シーンです。
私は以前既にその映画を観ていたので、次にそのシーンが来ることを知っていたために、爆発シーンを「来るぞ来るぞ」と待っていました。
ところが、いざそのシーンになったら爆発は起こらずに場面が変わってそのまま何事もなかったようにストーリーが進行しはじめたのです。
…んん?な、何が起きた?
とっさに理解出来ずに思考が停止したものの、数秒後に「暴力的なシーンだったために、規制がかかってカットされたのか」と理解。
これにはある意味衝撃を受けました。
最初にこの映画を観た時にも衝撃を受けましたが、このタイバージョンにも衝撃を受け、2度に渡って衝撃的でした。
そして、そのままストーリーは強引に続行。
それまで重要な役割を占めていた、爆発で殉死した兵士は突然出てこなくなるも、何事もなかったかのように展開していくストーリーに半端ない違和感を感じました。
一度全貌を観ているからなんとか理解できるけど、はじめて観る人はこの映画が賞を取る理由がわからなくなるかもしれません。
こうやって後から手が加えられて、製作者の意図から少しずつ逸脱していくんだなと思わさせられました。
日本でもこれからは特定秘密保護法の影響で、表現が歪み、製作者の意図から外されていく物が出てくるんでしょうね。
表現の自由といえば、イギリスにいた時のことです。
サーチー美術館というところに行きました。
そこには愛玩犬や猫の毛皮が飾ってあったり(犬猫好きには耐えられない嫌悪感です)、子供の人形の鼻がペニスになっていたりするもの(子供を持つ親なら嫌悪感が凄まじいと思います)を展示している美術館があります。
他にもホルマリン漬けの羊や牛の生首などがありましたが、当時の私は独り身だったので子供に悪影響を与える情報を排除したいという考えは頭をもたげず、それらをニュートラルに見て楽しんでいました。
一緒に行ったアメリカに住むアーティストの友人は「アメリカだったら色んな保護団体の猛反発を食らって速攻潰されてもおかしくないのに、イギリスって度量の深い国だわ~」と猛烈に感心していました。
表現の自由には表現者のモラルが問われ、表現してしまったらそれは衆人環視の目にさらされるということを忘れてはならず、
そうなってくると人に強烈な衝撃を与えるものは表現しにくくなるというのも否めず。
難しいところです。
さらに話変わりますが、ヨガでいうところのスバディシュターナ・チャクラは精力や性器に大変密接したチャクラなので、西洋の社会では抹殺されています。
これはタントラ、密教などで重要視される性行為を土着の野蛮な宗教と受け取り、その延長線上の解釈から抹殺されてしまっているのですが、
それを知らずに勘違いしていたりする解説者や、逆に意味を見出して新たな解釈を付け加えて話をややこしくしている解説者がいたりします。
(性に対する過剰なまでの嫌悪感は「性は不浄である」としていた中世キリスト教の影響があると一説に見られ、それまでのヨーロッパは日本の江戸時代と変わらずに性に奔放でした)
削除される前とされた後の両方を見比べてみないと真実は見えてきませんから、削除されたものだけを見て、そこに聖なる意図を汲み取ろうとするのは無理があります。
いつの時代にも人為的な操作というのは為されているものであることを理解することから本質の理解がはじまると思います。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
あいとひかりをこめて^ ^
はせがわようこ