ヨガのインストラクターなら、誰もが「この世はみんなのもの。」と考えるでしょう。

英語では my water (私のお水)と物質に所有格をつけますが、

お水は地球のもの。

誰のものでもありません。

だから誰かが考えたアィディアも突き詰めればみんなのもの。

考えた人だって元々はどこかの聖典などから引っ張ってきてるわけだし、パクっても構わない。(とまぁそこまで思うかどうかは別として)

大体こんなことが起きてるわけです。

情報はみんなのもの。

古の智慧はみんなのもの。

確かにそうです。

でもじゃあそれを自分というフィルターにかけて、落とし込んだ人の手間ヒマはどうなるんでしょう?

モチロンその人だって、生きてきて色んなところから集めてきた情報にすぎません。

ですので、突き詰めればやはりその人のものではありません。

が、その人がフィルターとなってこの世に抽出した情報でもあるわけです。

例えば、英語の本を誰かが和訳したとします。

すると和訳者の表現方法で和訳されるから、少なからず和訳者の意図が盛り込まれるわけです。


私の知っている素晴らしいヨガ講師は一つのレッスンに意図的に言霊をこめて発動させるためにノートにぎっしり言葉や図が書き込まれています。

その設計図のようなノートは本人にしか読み取れません。

その設計図を作成するのに下手したら何週間もかかるかもしれません。

だけではなく、彼女の生きてきたエッセンスがこめられてあるわけです。

ところが盗む側は一瞬です。

レッスンを見た人は、そこでどんな緻密な作業が行われているかもわからず一瞬で簡単に言葉を盗めてしまうのです。

彼女が意図的に使う独特な表現には特別な言霊がこめられています。

「斬新」という言葉がありますが

この言葉は裏を返すと

「残心」につながります。

言霊を魂に吸着させるために、斬新・奇抜な言霊を使っていたとして、それをみんなが真似し始めたらもはや斬新でもなんでもありません。

そしたら、製作者の人も使うのをやめてまた新しいことを始めるでしょう。

そしてそれをまたみんなが真似して、みんなは製作者の後を追い続けるわけです。

なので、もし真似ばっかりしてる人はいつまでたっても個が出て来ずに「私って結局なんなのか」分からないままです。

開き直って追っかけ続けるのもいいでしょう。

チェッカーズのフミヤの真似してて、フミヤがおじさんになったら今度はSMAPのタクヤになって、タクヤもおじさんになってきたら、今度は嵐のニノになればいいのです。

そういう生き方の人は自分で一切考えてないから、解脱はまず無理ですね。

そこそこの名声とそこそこの賞賛と少しの疑問と一緒に生きていけばいいと思います。

ところで、

製作者はパクられることは百も承知です。

世に出した時点で誰かがパクるのは最初から分かっています。

それでも突き動かされるものに従って制作し続けます。

突き動かさせるものとは天命。

神の意思とも言えます。

パクられたら、また新しいもの作ればいいだけだし、逆に古いものに執着しないで済むから、新たな創作の原動力ともなりえます。

しかしこんなことが続くと嫌になって隠し始めてしまう人もいます。

日本のヨガの大御所が解脱していない理由はここなんじゃないかと推測します。

どうぞどうぞとどんどん提供しているように見せかけて、与え続ければやがて自分の中が枯渇するのではないかという怖れ。

だから核心(解脱)には触れずに、核心っぽいものを提示しつづけているわけです。

そもそもヨガの目的は解脱なのに、それを机上の空論のように扱い続けることのナンセンスさと言ったらないです。
(これには時代的な考慮するべき点なども色々あったのですが)

私は幸運なことに、ダーマ先生も塚本先生も私の師たちはいつも解脱に向うレールにキチンと乗せて下さったので、このような現象に巻き込まれずに済みました。

が、日本の大半のヨガをする人々は、日本の大御所と言われる講師陣の怖れに巻き込まれているとも言えます。

鶏が先か卵が先かという論議にも似ていますが^^;

まぁしかし、それすらも全て魂の計画なワケです。

(そういう遠回りとも言える経験も地球のアセンションのエネルギーとして必要なわけですが、それは俯瞰した時の話なので、ここでは置いておきましょう。)

最後まで読んでくださってありがとうございました。

③につづきます^ ^

あいとひかりをこめて。

はせがわようこラブラブ