ヨガをする人たちが増えてきて、ヨガをしに本番インドへ旅行した人も増えてきたんじゃないでしょうか。
確かにインドには聖なる山や行者がこもって悟りを開いた所がたくさんあります。
しかし、悟りとは毎日の生活の中にあるもので、そういうところに行けば得られるものではないと知らなければいけません。
悟りを求めてヒマラヤに憧れるヨガナンダを師であるスリ・ユクテスワが「悟りは自分の部屋にある」と止めたことがあります。
悟りは内側にあるものでどこか特別な場所に行けばどうかなるというものではありません。(特別な師は必要ですが)
そもそも悟りたくてヨガやってたり、インド行ってるわけじゃないという人もいるでしょうから、それ以前の話かもしれませんが…^^;
因みにインドの子供向けに書かれた、ヨガナンダ大師の伝記漫画の最初の1ページが、インドのグルの中のグル(ジャガットグル)を決める聖祭クンバメーラのシーンで始まります。
ヨガナンダの師の師であるラヒリ・マハヤサが集まる人たちを一瞥し「悟りのなんたるかを知らないで、聖地にくれば恩恵を受けられると思って浮かれる馬鹿者らめが」と呟くという、本編と一切関係ないシーンから始まるところが自分的にちょっとツボでしたが、まぁそういうことです。
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私は20代の頃バックパッカーでした。
まだヨガを始める前に東南アジアを数ヶ月かけて旅した後に、インドに渡り一ヶ月ちょっとかけて北インドを旅をしていました。
その頃は超貧乏旅で、出来るだけ長く旅するために、1日の生活費を切り詰めまくっていました。
100円200円程度の酷い安宿に泊まって地元の人にまじって10円20円の食事をして。
時々、誰かのスープの中からゴキブリが出てきて、店主に言っても指でヒョイとつまんでポイッと捨てて、何事もなかったようにされたり。(おえ~!!)
雨季のぬるんだ道は聖なる動物と崇められて町を闊歩する野良牛の糞と混じり、足はいつも泥と糞だらけだったり。
チャイ屋がスプーンをぽとっと地面に落として、そこに牛糞まじりのドロがついてもたいしてきにせずそのままチャイを混ぜてて、チャイも茶色だしまぁいいかみたくなったりしてみたり。
手で排泄した部分を洗浄したり、素手の食事に慣れたころ、常に下痢気味なのはあまり清潔とはいえない自分の手のせいなのかと訝りながらもそれを確かめる術はないのでまぁいいかと思ってみたり。
病気になって高熱出しても、病院の診察代ケチって、地元のまじない師に祈祷してもらってその辺に生えてる草を飲まされたり、地元のおばちゃんの土で固めた二畳位の家の中で、子供が4~5人ギュウギュウになってるところで真っ裸になっておばちゃんが行う胡麻油のボディマッサージ(今思えばアーユルヴェーダ)を受けてみたり。
温泉が湧く町に行ったけれど服や貴重品を置くとすぐに取られるので、忍者ハットリ君みたく頭に縛り付けて入浴したり。
ガンジス川の死体焼き場では聖なる川で焼かれて灰をガンジス川に灰をまいて欲しい人たちの死体がどんどん持ち込まれ、どんどん焼かれ、生焼けの死体たちがどんどん川に投げ込まれるから、死体がプカプカ沢山浮いてたり。
その死体だらけの川で沐浴して、開けたばかりのヘソピアスの穴が化膿してウサギのチンチンみたいな色になってありえないほど腫れ上がったり。
死体焼き場の近くには人肉バーベキューでスクスク育った野良犬が沢山いて、野生の力を示してたり。
二等列車では4人乗りであるはずの木製のベンチシートに知らないインド人たちと8人ですし詰め状態で身動きも取れずに座っていると、膝の上に知らないインド人の子供が2人乗せられ、荷物を乗せる網棚に座ってるおじさんが私の頭に足を乗せてきたりして、そんな状態で10何時間も列車に揺られてみたり。
貰い物の木の笛やら、なんやらをバックパックからぶら下げて歩いていたら、後ろを振り向いた瞬間に一つまた一つと無くなっていくものの、あまりの暑さに抗う気力も失せ、されるがままになってみたり。
(後ろには人がえらいついてきてて振り向くとダルマさんが転んだのようにソッポを向いていたり。)
仏陀が悟りをひらいたブッダガヤの町では、親しくなったと思っていた地元のおじさんに睡眠薬飲まさて眠りかけて命からがら逃げ出したり。
カースト制は廃止されても依然人々はカーストに縛られていて、大きな街には不可触民 ( カーストの最下層で触ると穢れるとされる存在 ) 色の黒い男性たちがトラックの上に何十人と乗って目を爛々とさせながら肌を極度に露出させた白人女性の旅行者を見つめていて背筋がゾクッとしたり。
(インドの外人のレイプ事件は有名。ヨガの国インドに悪い人はいないと無防備にやってくる日本人はネギがカモを背負っているようなもの。)
インド人との騙しあいに疲れてネパールに避難したらそこで気を許した自称ネパール人がやっぱりインド人で詐欺にあい40万円騙し取られたり。。。
それがインド!!!!
こんなことの繰り返しで、ボーッとしてたらやられる国。
毎日が闘いでした。
本当に驚くくらい騙す気満々でしつこく人が集まってくるから悲しくもあり、それだけ切羽詰まってるんだということを実感しました。
ヨガはもともとヒンズー教から派生しています。
死ぬまで逃れられないカースト制の貧富の差に苦しむ人々の中から生まれた宗教です。
インドにヨガの聖地としての美しさだけを見ているならそれは完全に側面にしか過ぎません。
もっと乱暴な言い方をするなら、飢えと貧困と病気と差別と騙しとインド人の強烈なアクの強さが取り除かれたインドはインドじゃない!
全ては側面なれど、それらを肌で感じずにインドを語ることはやっぱり出来ません。
コーサラ国の王子だったお釈迦様が街に出るとき父王は、貧民や病気の人を隠して美しい側面だけを与えようとしました。
偶然そういう人たちを目撃したお釈迦様は衝撃を受け、なぜ貧富の差があるのか、なぜ苦しみがあるのか考え始めます。
ですから物事の側面だけを見てるときは真実は見えにくくあるものです。
だからといってバックパッカーになって放浪してこいと言ってるわけじゃないんですけど。(本当に危険ですから。)
私はインドに行って、命の値段について考えました。
あの国では人身売買が行われ、日本では死なない病気でも貧しくて薬が買えない人は簡単に死にます。
また私のように冒険野郎を気取った無謀で馬鹿な若者がたった20ドルのために殺されて川に捨てられます。
若い時は愛国心都会も持ち合わせていませんでしたが、色んな国に行って日本に生まれ育ったことがどれだけ恵まれていることなのか気づき、心から感謝の気持ちが生まれました。
当たり前に平和で、当たり前に安全で、当たり前に両親がいて、当たり前にご飯が食べられて、当たり前に学校に行けて、当たり前に寝るところがあって…。
この当たり前を当たり前と知らずに生きてきました。
インドにはこの当たり前が与えられていない人がたくさんいます。
インドってそういうところです。
だから人は何でこの世に生を受けたのか考え始めます。
この酷い人生は何なんだ?
もし神がいるなら何故私はこのような仕打ちを受けているのか?
神について、世界について、宇宙について考え始めます。
どういう思惑でインドに行くかは人それぞれですが、インドはヨガのテーマパークではありません。
行く人はそれなりの覚悟を持って行くことをオススメします。
全ての人に神様の恩恵がありますように。