人は自分に何か災厄がふりかかり、悪いことが起こると、

それが自分が引き起こしたことであるかどうかに関わらず

「あぁ!どうしてこんなことになっちゃったんだ!」

と自分の行いをふりかえります。

それまで気にしていなかったのに突然、

「罰があたったのかもしれない」

と考え始め、

「こんな生活してるから」

と反省したり

「私の頑張りは不十分ですか⁈」

と天に問いてみたり、

日頃の行いを改め始めたりします。

そして、ちょっとおとなしくなって殊勝な態度になり、問題が過ぎ去れば、日頃にまた戻るだけの人が多いです。

しかし、事象は事象。

みなさんか見たら、何かに巻き込まれたように見える出来事も、地球からみたら単なる事象に過ぎません。

心にやましさを感じ、改めなければいけないのであれば、それは自分の問題ですから、これを機会に、この時だけでなく常に見つめ続け、今だけでなく、しっかり改善して行く必要があります。

そして、それらの出来事は心に気づきを与えてくれるキッカケにすぎず、自分の心を改善したら治るものというように天との駆け引きに使うものではありません。

ですから、心は心。

事象は事象と知らなければいけません。

罰という考えは、自分の怖れからくるもで、みなさんの心にあらわれるものです。

自分の中の怖れを取り除いて行けば、出来事は全て普通のことで、地球のサイクル上に必然として起こっていることにすぎないと感じ心が静かになり始めます。

( ですから、自分が悪事を働いていると自覚し続けても尚行い続ければ、それはそれは雪だるまのように膨れ上がった罰としてみなさんに降りかかるのでしょう )

それはやがて、自己という狭い領域から抜けて宇宙へ意識が広がって行く助けになっていくのです。

その時に、瞑想を通じて、領域を拡大させていけば、目に見えないエネルギーとつながっていくこともできるようになるでしょう。

ですから、起こっていることは全て必然である。

そして、現象の責任を追って罪をかぶろうとしないことが大切です。






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