生徒さんから、「発表があって大変緊張しています。大丈夫と励ましてください。」というご依頼がありました。
確かに励ましてくれる人がいると嬉しいものですが、
自分から誰かにお願いする時は、言い方気をつけないと、欲しい答えじゃない答えが返ってきます。
「例えば魔法学校やるけど、私大丈夫だよね?出来るよね?」
「出来るよ!大丈夫だよ!」
と言われても、言わせておいて励みになるとは思えません。
「○○ちゃんなら大丈夫だよ!」という根拠のない応援は出来ませんので、光を送ってくださいと依頼された方がよほどすることは色々あるものです。
表面上の言葉をもらっても、結局あまり有難くないのは何故か。
何故なら自分で決めたことだからです。
人に出来るかどうか確証を求めても結局やるのは自分ですから。
例え、失敗しても「あの人が出来ると言ったからやったのに失敗した」と、人のせいには出来ません。
応援と言うのは無責任なもので、結果は関係なく、ただその人を信頼しているという後押しにすぎません。
じゃあ、全部自分の力でやってるかというと、それは全く違うわけで。
どんなことでも、いつもいろんな人の支えがあって、こうして全てやってられるわけです。
だから、言葉での励ましはなくてもいつもみんなに支えられていて、それは私がどういう選択をしようが、どっちに転ぼうが変わらないわけです。
それこそが実は究極の応援で励ましです。
自分のことしか見えてない時はそこに思い至らないものですが、
深呼吸して、周囲や世界とのつながりを思い出せば、自分の中に光が射し込み、
「私は一人ではない。いつもみんなに支えられている」
ということに気づけるわけです。
このエネルギーの循環が、我々に力を与え、自分の役割を各々が粛々とこなす原動力となっていくのです。
私たちは本当に見えないところで支え合って生きていますね。
親に、仲間に、関わる人に、地球に、宇宙に、そして自分自身に感謝です。
ありがとうございます
iPhoneからの投稿
確かに励ましてくれる人がいると嬉しいものですが、
自分から誰かにお願いする時は、言い方気をつけないと、欲しい答えじゃない答えが返ってきます。
「例えば魔法学校やるけど、私大丈夫だよね?出来るよね?」
「出来るよ!大丈夫だよ!」
と言われても、言わせておいて励みになるとは思えません。
「○○ちゃんなら大丈夫だよ!」という根拠のない応援は出来ませんので、光を送ってくださいと依頼された方がよほどすることは色々あるものです。
表面上の言葉をもらっても、結局あまり有難くないのは何故か。
何故なら自分で決めたことだからです。
人に出来るかどうか確証を求めても結局やるのは自分ですから。
例え、失敗しても「あの人が出来ると言ったからやったのに失敗した」と、人のせいには出来ません。
応援と言うのは無責任なもので、結果は関係なく、ただその人を信頼しているという後押しにすぎません。
じゃあ、全部自分の力でやってるかというと、それは全く違うわけで。
どんなことでも、いつもいろんな人の支えがあって、こうして全てやってられるわけです。
だから、言葉での励ましはなくてもいつもみんなに支えられていて、それは私がどういう選択をしようが、どっちに転ぼうが変わらないわけです。
それこそが実は究極の応援で励ましです。
自分のことしか見えてない時はそこに思い至らないものですが、
深呼吸して、周囲や世界とのつながりを思い出せば、自分の中に光が射し込み、
「私は一人ではない。いつもみんなに支えられている」
ということに気づけるわけです。
このエネルギーの循環が、我々に力を与え、自分の役割を各々が粛々とこなす原動力となっていくのです。
私たちは本当に見えないところで支え合って生きていますね。
親に、仲間に、関わる人に、地球に、宇宙に、そして自分自身に感謝です。
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