お祖母ちゃんのお葬式は、お寺を借り切って行われました。
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映画やお芝居の舞台、夜店などを誘致して、花火をあげて、お祭りの賑わいで、何百人という街の人たちが訪れてくれました。
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お芝居や映画の誘致。
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お祖母ちゃんの棺が設置される巨大建造物に、蘭を基調とする豪華な花の装飾。
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溢れんばかりの僧侶や参列者に供される食事やお土産。

一体いくらかかるんでしょう。

やらしいとは知りつつもレックに聞いてみました。

ところ、うん百万円ということが判明。

そうか。

うん百万出すとこんなことが出来ちゃうのか。

レックのおうちは特別昔のしきたりを重んじるために、伝統的な形式をとっていますが、現在ではこれを行う家庭はほとんどいないそうです。

見学に来ていた近所に住むお爺さんも、70年以上生きてきて始めて見たと驚嘆していました。

私だってこんなお葬式があるんだと本当に驚きました。

レックに「これいくら?」と訪ねると金額を全部知っていることにも驚きました。(←やらしい^_^;)

なんで知ってるのか訪ねると既に「三回目だから」だそうで。

しかもお祖父ちゃんの時はこの◯倍の規模だったそうです。

「◯倍って円に換算したら…日本で家一軒建つじゃん!!」

「お祖母ちゃんのこの葬式でも充分凄いのに、これ以上どこにお金かけられるの?」

例えば、使用される飲み物、料理、花や花火の量や質を変えるようです。

また、何百人と入れる大法要堂の絨毯や垂れ幕は10年前のお祖父ちゃんのお葬式の時に全て新調して進呈したそうで、お祖父ちゃんの名前が入ってました。

それら全て死者の弔いのためなわけです。

死んでしまっているわけだから、どんなに豪華な式をしても、またしなくても死者には分からないわけです。

「お祖母ちゃんも天国できっと喜んでいるわ」

なんてよく言いますが、肉体を離れ魂となってからは人間的な三次元レベルの喜びが死者の価値判断にはなりません。

(↑これについては説明が長くなるので端折りますが)

邪気を祓い弔うという意味でお葬式は必要ですが、豪華な式は行う側のための行為でもあります。

「喜んでもらえるわけでもないし生者に使いたい」と割り切る人も多いでしょうが、

物質的な欲求を満たすために百万円使わず、一夜限りの死者の弔いにパッと使うというのは気持ちがいいと思いました。

これは完全に見返りを求めない無償の行為で、人の魂を高みに導く崇高な行為だといえます。

因みに、ここまで読んで「お金持ちだからでしょ」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、うちなんて冷房もないし、ホットシャワーもありません。

旦那さんの両親の方針でこのような自然環境の中で生きておりますが、要するにお金の遣い方や大事にすることが違うのです。

自分の欲求を満たすためのお金はあるけれど、聖なるものへ捧げるためのお金は出せない人たちは本当に残念です。

私たちはつい自分の懐事情と相談してから物事を決める癖がありますが、本当にやるべきことの前に懐事情は関係ありません。

自分にとって本当に必要な行為であったら、お金はあとでついて来るものです。

「いくらだったらやる」

この考えは物質性の方に人を引っ張って行くので、霊性からは引き離されていきますから注意が必要です。

因みにダルマ(宇宙の法則に則った正しい生き方)は富も生みます。

今あるお金に執着して、今あるお金を一生懸命囲っている人はお金の流れも悪いから一生貧乏でお金に悩みます。

逆にお金と健全に付き合っている人は、循環させるのが上手なので、流しても流しても更に沢山のお金が喜びと共に入って来ます。

みなさんはダルマの法則に則ってお金と健全につきあえてますか?



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