修行が長ければ長いほど、「覚醒は簡単じゃない」と思ってしまいます。

そして、自分や周りの人がこんなに大変な思いして修行してるのにそんなに簡単に覚醒できるはずがないと、人の覚醒にまで懐疑心を持ち始めます。

覚醒には確信が伴います。

勉強などしていなくて全く知識がない人でも、カルマヨギのように自分の普段の行いから精神性が高まり覚醒する人もいます。

バクティヨギように深い神への愛から全てを放棄して覚醒する人もいます。

そういう場合は「覚醒ってこういうことか」という実感はなくとも、その人の内には神聖が宿り、その人の語る言葉は真実の光がさしています。

そういう人に会うたびに、修行することが偉いわけでもなんでもないと思い知らされます。

「覚醒とは」という言葉をこねくりまわして、修行を楽しみ始めてしまっている人は沢山いますが、真理の光に理屈はありません。

覚醒するまでは自分の段階が気になります。

今私ってどれくらい覚醒に近い?

瞑想中にこんな経験したけれど、これって覚醒が始まったってこと?

覚醒は確信が伴うので、外側に確証を求めている内は覚醒ではないとだけ言っておきます。

覚醒が始まり、視野が広がると、時間枠を飛び越え始めます。

過去、現在、未来は本当の意味で並行現実となるので、こちら側から見ると「いつ」はありません。

「私はあとどのくらいで覚醒出来るの?」という時間にとらわれた質問は困ります。

その人が決めさえすれば変わらない未来を変えることが今すぐ出来るのです。

高い次元では既に覚醒しているわけだし、未来の自分は覚醒しているわけだし、過去に囚われている自分だけが現在を過去にしてしまい、覚醒を留まらせているのです。

「未来のいつかは覚醒しているかもしれない」

ぐらいのポイントの置き方は曖昧で不確かな未来です。

未来のいつだよ⁉

来世?

何回後の来世?

来世に決めずに今生にすれば?

ついでに死の間際じゃなくて今にすれば?

コレを決めるのは本人です。

周りの人は決められません。

決めましょ。





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