ヨガの最初の解脱者とされるパタンジャリ大師はクリヤ・ヨガについて
クリヤ・ヨガは肉体の訓練と精神の統御とオームに対する瞑想より成る
と言っています。
オームとは瞑想中実際に聴こえてくる聖なる音で、宇宙が創られる時に起こった振動音とされます。
パタンジャリはこれを“神の創造のコトバ”と表現しています。
キリスト教では同様のことを「アーメン」で表しています。
「アーメンという信頼すべき心理の証人、神につくられたものの根源であるおかたが次のように言われる」ヨハネの黙示録3章14節
「はじめにコトバがあった。コトバは神であった。すべてのものはこれによって出来た」ヨハネによる福音書1章1-3
聖音「オーム」は多少の音を変えて世界中で表現され神とつながる祈りに用いられています。
(チベットの「フム」、回教徒の「アミン」、エジプト・ギリシャ・ローマ・ユダヤ・キリスト教の「アーメン」など)
聖パウロは「わたしがキリストの中にもつわれわれの喜びによって言うが、わたしは日々死んでいるのである」と言いました。
彼は体内の生命力を完全に内なるものに集中する技法を用いて日々キリスト意識の至福に浸り神との合一を経験していたそうです。
通常の人は生命力は外側の感覚的世界にのみ向かって働き、感覚対象を実在のごとく錯覚しています。
この世は幻影(マーヤ)。幻で、われわれは夢を見ているにすぎないのです。
聖パウロはこの至福状態にはいったとき、自分が感覚的錯覚から解放され、幻影(マーヤ)の世界では死んだことを意識しました。
サマディ(三昧)の初期段階(サビカルパ・サマディ)ではヨギは意識の宇宙霊の中に完全に没入し、生命力は肉
体から引き上げられ、肉体は死んだように硬直します。
本人は仮死状態になった自分の身体を完全に意識していますが、周りの人からは一見死んでいるのかサマディの境地になるのか分かりません。
クリシュナムルティが没した時も周囲の人では判断できなかった為、近しい弟子が呼ばれ死んでいるのか瞑想中なのかの確認を求められたそうです。
さらに高い境地のサマディ(ニルビカルパ・サマディ)に達すると、肉体硬直も無く神と霊交を保持しながら普段通りの生活を送れるようになると言われています。
サビカルパ・サマディは差別感の残ったサマディ。
自己と神との間の差別感がまだ多少残っているがニルビカルパ・サマディはそれが一切なくなった状態で、完全に宇宙霊と一致し何の差別も無くなります。
クリヤ・ヨガは誤って行うと自然に反した非科学的呼吸法となり、不快や苦痛をもたらすが、正しく行うと平和な気分と脊髄に充実した爽快感が感じられます。
さらに霊的に進歩してくると修行者は呼吸を一つの概念として、心の働きとして認識し始め、夢と同じ心による呼吸がはじまるのです。
クリヤ・ヨガに興味がある方は毎週火曜の朝の瞑想会へのご参加をおススメします。